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−諦めていたローズパレード−

わが部を昭和13年来育ててくださった矢野清先生が、一昨年暮れ、学校からの派遣で吹奏楽界の研究に渡米された際、ロサンゼルス近郊のパサディナ市で毎年1月1日に行われる世界的有名な花の祭典ローズパレードと、全米学生アメリカンフットボール選手権大会のローズボウルを見学してこられた。その前日、主催のパサディナ・トーナメント・オブ・ローズ協会に招かれた先生は、リチャード副会長(本年度は会長)とベネディクト音楽委員から、1966年は77回になるが、まだ外国からバンドが参加したことがない、ぜひわがバンドに参加してほしいとの依頼を受け、関係書類をもらって帰国された。

その後昨年5月リチャード会長はわざわざ東京に立ち寄られ、上京した矢野先生と懇談された。その際明年は世界の21カ国の国花を集め、人工衛星により実況を全世界に放送する予定だし、欧州からも1、2団体出場することになっているから、東洋からも本校にぜひ参加してほしいと再度の要請があった。しかし参加費はその団体の負担で協会からの補助も出ない。旅費だけでも多額の費用を要することなのでほとんど不可能のこととあきらめていたところ、同会長から、帰米後旅費の援助をしてくれるような団体を奔走しているという明るい情報が届いた。ところが天理教アメリカ伝道庁側で調べてみたところ、やはり思わしくない状態であることがわかった。

しかし、一縷の望みを抱きつつ、矢野先生を中心に部員一同はコンクールめざして全力を傾注した。その結果、関西吹奏楽コンクールでは通算11回目、全日本では6回目、NHK全国学校器楽コンクールでは2回目の高校の部で優勝を遂げたことは、教内挙げて喜びとするところであった。

そして、二代真柱様の温かい親心から、ローズパレード参加が決定したとの報に接したのは、11月も半ば過ぎた頃であった。ここにみんなの喜びは幾重にも高まり、教内全般の多大のご支援を仰ぎ、急速に準備が進められはじめた。出発までは1ヵ月しかない。楽器の整備、帽子から靴まで新調される。米国への打合せ、渡米の手続き等、喜多校長先生を陣頭に、海外伝道部長兼アメリカ伝道庁長高橋先生もご奔走くださる。部長の森岡先生など往復文書で夜もろくろく休めないほど、57名の渡米手続きに海外伝道部は大わらわである。ただ演奏会用の曲目は矢野先生が予期してか、夏から準備され練習していたのは幸いだった。最後まで望みを捨てず渡米を念じて精魂を打ち込まれた矢野先生の喜びはいかほどであろうか……。

はからずも今回、OBの速水氏とともにアシスタントとして私も同行するという光栄に浴したのであるが、速水氏は映画撮影を、私は写真と記録を仰せつかり、ともに経験が浅いためその重責を全うし得るかどうか不安であったが、かくするうちに出発の日は近づいていった。

−57名元気で出発−12月26日

二千余人の人々による盛大な壮行式ののち、午後1時天理をあとにした一行57名は同夜10時日航機にて元気に羽田を飛び立った。約13時間後、現地時間26日の午後6時われわれは無事ロサンゼルス空港に到着、ロビーには教内関係者が大勢出迎えてくださっている。その人たちに混じって5月天理に来られたカリフォルニア大学音楽科の主任教授ソウヒル先生ご家族が矢野先生を待ち構えておられ、堅い握手で互いに再会を喜び合っておられる光景は、まことに微笑ましい。

表に出ると協会の歓迎委員スミス氏他9名の出迎えを受け、車体にローズパレード・パサディナ・オブ・ローズ協会と花模様でデザインされたオフィシャルカー10台に分乗、教内の車とともに高速道路を7、80マイルの速度で宿舎の天理教アメリカ伝道庁へ向かう。実に爽快。

−伝道庁歓迎レセプション−12月27日

午前中、楽器、服装の整備並びに荷物の整理等準備にあたったのち、早くも練習を開始した。その間代表者は、領事館、新聞社、JAL等へ挨拶にまわる。午後からは島内総領事主催のティーパーティーに全員出席、音楽を通じて日米両国の親善に尽くしてほしいとのお言葉を頂いたのち、旗手をつとめてくれる2、3世の女生徒たちとなごやかな一時を領事館邸で過ごした。夜は伝道庁の歓迎レセプション、約1時間演奏を披露した。

−ディズニーランドでパレード−12月28日

朝少し練習したあと、10時半バスにてディズニーランドへ向かった。今日は招かれて演奏することになっている。曇り空のためか少し肌寒い。昼食後しばし見物、1時にはメインストリートに整列してアルカディア・ハイスクール・アパッチバンドのパレードを見物、白い帽子に真赤な服装、ひじょうに華やかである。

その後正装して行進を始める地点に待機していたとき、ソウヒル教授の依頼で、昨年矢野先生をロサンゼルスの中学、高校に案内してくださった吹奏楽コンサルタントのダイクマン先生(トランペットの名手)が見えて、矢野先生と堅い握手、また、アームストロングとともに来日したことのあるクラリネット奏者に紹介されて、わが部のクラリネット主席の藤本君も緊張した面持ちで握手。先生にとってはこういう場所での奇しき再会に驚いておられた。

2時、わが部のパレードが開始された。場内放送されるし、ちょうど冬の休暇中のためか入場者は4万人を越す人出であったので、広場でマーチ数曲を演奏しているうちにバンドの周りは十重二十重の人垣がきずかれて、数々の讃辞をあびた。

−ロスでは珍しい豪雨−12月29日

UCLAで練習のため午後からバスで出かけたが、朝から降り続いた雨はますます激しくなり、嵐を思わせるほどで、ロサンゼルスでのこういう天候は珍しいそうである。

矢野先生はソウヒル教授にフランス組曲でも見てもらうつもりらしく、行進演奏の用意はしていなかった。ところがソウヒル先生から15分ほどUCLAのバンドの前で行進演奏してくれとの依頼があった。ここは寄宿舎の大広間なのでローズパレードに参加する他のバンドもいた。そこで、行進用太鼓を借りて演奏したところ、音がきれいなこととボリュームのあるのにびっくりされたらしく、ソウヒル先生はべたほめに褒めてくださるし、UCLAのバンド部員も驚いていたようである。

演奏を終わって控室の方へさがったとき、矢野先生を無理に引っぱっていき、いっしょに写真を撮ろうとするカーキ色の軍服をつけた方があった。その人は見学に来ていたグアテマラの軍楽隊長ラファエル・ファピス・カステリャーノ氏で、スペイン語しか話さないので二重の通訳を入れての会話が始まった。通訳の方は氏の話を英語に、こちらの通訳はそれを日本語にというややこしい場面が続いたが、氏はどうやらわがバンドを日本の軍隊専属の少年音楽隊と見たらしく、ハイスクールバンドだということが分かるやまた一驚、われわれの演奏やその態度を非常に褒めはやしていた。

夜は宿舎で前年のローズパレードの映画を鑑賞し、早くも1月1日に思いを走らせていた。

−日出ずる国からの参加−12月30日

今日は協会本部でパレードの打合せがある。矢野先生、森岡部長とともにパサディナの本部へ出かけた。リチャード会長は矢野先生を抱きしめるようにして再会を喜び、歓迎してくれた。ロサンゼルスでプログラムを見たとき、欧州からは1団体も参加していないことを知った。外国からは、陸続きのカナダのバンクーバーから1団体参加しているばかり。協会のパンフレットには、わが校を「日出ずる国からの参加」と紹介してある。もしもわれわれの参加がなかったら、会長としても不利な立場に立たされるところだったかもしれない。それだけに会長はとても嬉しそうだった。

やがて会議が始まり、会長、音楽委員長の挨拶のあと、各団体の紹介があった。

この場で再びダイクマン氏に出会い、ディズニーランドでの行進演奏を褒めてくださったのは当日を案じているわれわれを安心させてくれた。

会終了後全員一台のバスに乗り込み、当日のコースを見てまわった。5マイル半という距離は、これでは相当に長い。みんな元気に全コースを演奏行進してくれるだろうかが少し心配になる。

わがバンドの先頭には、日章旗、つづいてTENRIと花で飾った6角のプラカードが5つ並ぶ。次に天理教教旗、ローマ字で書いた横3メートルの長幕がつづき、そのあとに2つの優勝旗と団旗、そのうしろをバンドがつくということになっている。これらを持ってくれる女生徒は在米の2、3世の日系のお嬢さんたち、先日来伝道庁に集まってさかんに練習をつんでいてくださるが、果たしてこの長いコースを歩ききれるかという心配も起きてくる。

午後からはドジャース・スタジアムへ行っての行進練習、日も迫っているので森本ドラムメージャーの練習は厳しい。

−いよいよ明日が本番−12月31日

いよいよ明日は晴れの本番。最後の練習に再びドジャース・スタジアムへ出かけて間に、校長先生、速水氏とともに再びコースを見にまわった。すでにこれといった沿道の良い場所には人々が椅子などを持ち出し場所の確保に懸命だ。まだ午前11時だというのに、毛布や寝袋を持ち出し座り込んでいる人、テントをはって徹夜に備えている人、ごっそり食料品を買い込みゆうゆうと陣取っている人など、今からこんなでは明日の賑わいは想像以上のことだろう。催し物としては世界最大の人を集めるといわれるにふさわしい前日の光景である。

−八十年祭の歌高らかに−1966年1月1日

いよいよパレードの当日である。一同は朝4時に起床。アメリカ伝道庁の神殿は、元旦祭の準備であかあかと燈が灯っている。出発が早いので朝の参拝をすませると、ただちに協会からの迎えのバスに乗り、パサディナ市(ロスの隣の市)へと向かった。ロサンゼルス地方は暮れから正月にかけては雨が降ったことがないそうで、昨年暮れのは60年ぶりの気候不順で当日が心配されたが、今日はまったくの好天気で日本の初夏を思わせる。途中は見物に行く車でたいそう混雑していたが、われわれの車は指定のコースらしく、警官がいてノンストップで通行できた。協会の行き届いた企画について、まず頭が下がった。

7時30分出発待機点のガーフィールド高校に到着、校庭でははや参加バンドが多数待機し練習をしていた。各団体とも服装や動作は派手だ。人数も相当多いが、その割にはあまりボリュームがないように思われる。われわれが音階練習を始めると、みんな一斉に注目していた。出発すれば最後、2時間半は1度も休憩もなければ小用もできないため、トイレは超満員で列をなし、みんな大弱りだった。

オレンジローブ通りの出発点にずらりと並ぶ豪華なフロートの間へ誘導されたわれわれは、日章旗を先頭に体型を整えた。フロート3つおきぐらいにバンドが入っている。本年は「小さな世界」というテーマのもとにいろいろ趣向をこらしたフロートが出品されているが、それらの飾り付けすべてが生花でなされているのだから驚かされる。じつに美しい。なかには1台に30万本以上の生花を使用し、それ1つの製作費が8万ドルもしたというのもある。国際的なテーマのためか東洋、とくに日本色がふんだんに盛り込まれているのが目につく。天理のバンドのすぐうしろには、オクシデンタル保険会社が出した「ボーイズ・デー・イン・ジャパン」というフロートが続き、着物姿の2世の他に昨年のパレードの女王も同乗している。

8時40分ファンファーレの音とともにパレードは開始された。総裁のウォルト・ディズニー氏、リチャード会長の車に続いて、次々とバンドやフロートのパレードが展開されていく。9時15分われわれのバンドが行進開始。青い羽根飾りのついた白い帽子、紺のダブルのスーツの上にハッピを着用し、その上から白いベルトをかけた姿は、勇ましくさえ見える。バラで飾ったバトンを持つ矢野先生の手さばきも鮮やかである。

出発点から近い協会本部前を通過した際、400 名ほどの大会役員が一斉に起立して拍手を送ってくれた。日本総領事館前には、日章旗が掲揚されており、島内総領事をはじめ、館員や日系人の声援にとくに「君が代行進曲」を演奏、矢野先生は答礼して通過した。コロラド通りへ右折したところは高台で、6車線で一直線に延びているコースを一望できる。その両側は人垣でぎっしり、終点ははるかに遠い。最後まで演奏し続けられるかが心配になるほどだ。しかしみんな元気いっぱいである。延々8キロのコースを2時間25分、6曲の行進曲を交替で、ほとんど吹きづくめで堂々と行進していく日本の若者に、つめかけた 150万にものぼる大観衆は、おしみない拍手と声援とを送ってくれた。これも日頃の訓練のたまものか、一人の落伍者もなく全コースを最後まで吹き通し、無事責任を果たし得たことはなによりも嬉しいことである。「行けども行けども、ものすごい人で、もう夢中で吹きまくった。もしあれだけの間、人が見ていなかったら、歩けなかったかもしれない」とは、生徒の一人がもらした偽らざる気持ちである。

午後からは、全米学生アメリカン・フットボール選手権試合ローズボウル。UCLA対ミシガン大学の試合を、スタンドにつめかけた10万人の観衆とともに見物させてもらった。正直なところ、われわれには、フットボールはなじみが薄いため、派手に応援するバンド合戦の方に大いに興味が注がれた。ハーフタイムに行われた 151名編成のUCLAバンドや 175名のミシガン州立バンドのドリルは見事なもので、多人数にもかかわらず、整然と一糸乱れぬ演技ぶりに、心ゆくまで堪能させてもらった。

ローズパレードに参加したことに対し、後日ロサンゼルスのキーノート楽譜専門店の主人バーストンをはじめ、遠くシカゴのハロルド・ワルターズ氏、その他各方面から多数の手紙を頂き、ご批評を仰ぐことができた。ここにその一部を掲載させて頂くことにする。

「ローズパレードのあなたたちの行進演奏を拝見いたし、あなたたちの演奏するマーチの正確さと優秀さに大変感動しました。TV放送の解説者たちは、批評のなかで最高に褒めていました。また見物人たちは熱狂的な拍手を送っていました。(中略)アメリカのバンドの指導者たちは、他のバンドの演奏にかくも好意的に反応を示したり、自発的に意見を述べたり、また正直に褒めてくれることなど、そうたびたびあるものではありません。それにもかかわらず指導者たちから熱烈な報告を聞き、今なお良き評判が聞かれるということを、あなたにお知らせしたいと思います。ブラボー、本当に素晴らしいことでした。ご成功を祝します。
Tustin Burston

−何種類もあるアメリカ国歌−1月2日

7時30分起床。喜多校長が教会本部の用件で一足早く帰国されるため、8時に一同でお見送りする。昨日のパレードで、さぞかし疲れていることだろうと思っていたが、部員一同なかなか元気がよい。本日は第1回目の演奏会を開く日だが、ひとつ困ったことは、会場(ルーズベルト高校講堂)は1時間前しか開館してくれないので舞台上の練習もできず、開幕の準備に追われたことだ。ティンパニー4台とチャイム等をソウヒル先生のご配慮でUCLAから拝借できたが、ティンパニーのペダルの故障で困っていたところ、ソウヒル先生自ら調整してくださったのには頭が下がった。

午後7時アメリカ国歌吹奏によりプログラムに入った。ご参考までに申し上げるが、この数日前、矢野先生がキーノート楽譜店へ行って調べられたところ、なんと17曲もの編曲の違うアメリカ国歌があったそうで、最もオリジナルな楽譜を先方に教えてもらって購入したものを演奏会で使用したのであるが、多少日本にある楽譜とは相違点があるようである。

会場には、ローズパレード協会のリチャード会長ご夫妻、島内ロサンゼルス総領事ご夫妻、ソウヒルご一家、その他在留邦人会の方々等多数来会くださった。やはり昨日の疲れは隠せないようだったが、部員一同精魂を打ち込んで矢野先生の指揮のもとに力いっぱい演奏してくれた。ただプログラムの曲目が多すぎて予定の時間を過ぎたのは失敗である。それに、当地の空気は乾燥しているためオーボエのコルクのタンポの部分が乾ききってしまい、音がつまるのには冷汗をかいた。しかしアンコールにつぐアンコールで、プログラムが終わっても聴衆は帰ろうとせず、終演は11時近かった。終わるなり楽屋は人でいっぱいになり、リチャード会長やソウヒル先生からも、演奏会の成功を讃える、身にあまる祝辞を賜った。

「昨日は貴校の演奏会を一家中で聞かせて頂きました。私も指導者なので、その感じた点を述べることをお許しください。
あの演奏はどの点から見ても音楽的で最高に素晴らしいものでした。ベートーベンやその他の曲の編曲は、吹奏楽用としては非常に熟練を要するものですが、あなたがどれだけ完全な編曲技術をお持ちか、ダイナミックで、楽器の編成法は、無条件に超一流でした。指導に対する生徒の態度は、とても良く訓練されており、敏感なのが印象的でした。シューマンの『ニュース・リール』の演奏はとくに完全で、技術的な点では、あなたたちの演奏はアメリカやヨーロッパのオーケストラの奏者たちと同等であると感じました。
長いプログラムの1曲1曲について、完全な批評をここですることはできませんが、私が過去9年間、アメリカの西海岸を旅行し、各地で高校や大学の一流バンド、コンテストで1位を獲得したバンド等を聞いてまいりましたが、あなたたちのバンドほど音楽的な演奏を聞いたことはありませんでした。(中略)私は二度とあなたたちのバンドに会い、演奏を聞くことができないのかと思うと残念でなりません。もしあなたたちのバンドが再びわが国の各地を演奏することが可能となれば、批評と、理解は今以上に話題となり、賞賛を得ることでしょう。今後、どうかあなたたちのバンドのより以上の栄誉をお知らせくださるようお願いいたします。
ジョン・グロス(ロサンゼルスのディレクターでフルート奏者)

また、2年も故郷を離れてロサンゼルスに留学している一女生徒からも次のような手紙を頂きました。

「君が代の演奏を聞いたときは涙が止めどもなく流れ、感激の極まりでした。私の通っている高校でもときどき音楽を聞くのですが、いつも中途から居眠りが出、なにがなんだかわからない間に終わってしまいます。日本からわざわざ来たのだからと友人に誘われて行きましたが、予想に反して、日頃は長く退屈で無意味に思えるあのクラシックの曲が、今度は好きになり熱中させられました。やはり日本一は素晴らしいですね。演奏は勿論のこと、何よりも感心したのは演奏中の態度です。私の学校ですと自分の吹く以外のときは、目先をキョロキョロさせているのが常です。でも、天理の皆様方は真剣に指揮者を見つめ、一生懸命演奏していました。昨日のパレード、残念ながら私は見ませんでしたが、人から聞いた話では、突然小粒なバンドが現れたような気がしたと言ってました。でも少ない人数なのに音量や技量は、普通のバンドより数段うまかったと言ってました。本日の演奏を聞いても本当だと思います。周りの人も「高校生にしてはうますぎる」と言ってました。
なつかしい日本の曲を聞いたとき、故国の便りを聞いたと同じような感激を味わいました。日本人であるという自負がわいてきました。この頃いつまでたっても英語を覚えない自分が憎かったのですが、演奏会を聞いたあと希望が湧いて、日本人であることによみがえって明日から勉強いたします。本当にありがとう。ルーズベルト高校での音楽会は一生忘れることができないと思います。
比嘉絹江

−天理ハイスクールバンド・デー− 1月3日

荷物が多いのと飛行機が小型のため、われわれは2班に分かれ、午前8時14分及び午後1時12分、ユナイテッド航空にてフレスノ市へ出発した。出発間際にプロペラが一つ回らなくなったり、山間部では気流の関係で少し揺れたりし、しばし緊張した場面もあったが、午後3時フレスノ飛行場で無事2班が合流した。ただちに行進準備を整え、バスにて市の中心部へと向かった。3台のテレビカメラの待ち構えているメインストリートを警官に誘導されて堂々と演奏行進を開始し市役所へ向かった。バンドの通る間はすべての交通を遮断し信号が赤であっても、他の車を止めてバンドを通してくれた。そのためあちこちで停滞した車の長い列がすぐにできてしまうが、どこからもなんの苦情も出ず、むしろ好意的に迎えてくれたことは、われわれにとっては驚きであるが、大変感激させられた。市庁に到着すると、玄関前にハイド市長はじめ市の幹部の方々が大勢待ちかまえていた。さっそく歓迎会が始まった。当方から到着の挨拶をし、天理から持っていった「おやさとやかた」のモデルのオルゴールを贈呈した。やがて市長が宣言文を読み上げた。本日を「天理ハイスクールバンド・デー」と宣言したのには、当方一同驚きと感激であった。そのあとフレスノ在留邦人たちによるレセプションに招待され、非常な歓迎を受けた。午後8時から市の記念公会堂で音楽会を開催した。ここでは、この催しはアメリカ人たちの主催で司会は平ドクターが特別にしてくださった。こういう催しはかつてないそうだ。この日は正月の休暇明けの忙しい日にもかかわらず1200名からの聴衆で大きなホールも一曲ごとに湧いた。在留邦人の方々から大きなカップとかご入りの花束を贈呈され、市長自ら矢野先生に「市の鍵」をくださったのには、先生も恐縮していた。演奏時間がないので残念ながら曲目は略したが、演奏のすんだときは聴衆は起立して拍手を送ってくれた。それも白人から先に立ち上がったのだから在留邦人の方々もびっくりされたそうだ。終了後、楽屋では、ここでも矢野先生もサイン攻めで汗だくだった。なかには80マイル先からも参会して、帰るのに2時間もかかるという人もあったが、満足して握手して喜んで帰られたのには涙が出た。演奏会の中途の休憩のとき、当市のディレクターたち数名が矢野先生に面会に来られて「プログラムは野心的で各パートが実にきれいだ。それに全体のハーモニーがとても素晴らしかった。どういう訓練をしているのか」との問い合わせがあった。本校のバンドはクラブ活動なので、放課後1、2時間練習している。土、日曜日は部員全体が喜んで参加し合奏練習を行っていて矢野先生一人が全楽器を指導していると答えると、不思議そうにして納得いかぬ顔つきである。それもそのはず、アメリカでは授業中にバンド、オーケストラ、合唱等の練習をなし、放課後は一切しない。土、日曜は全休で学校にはディレクターはいるが、市の方から専門家が指導に回っている組織になっているので、わが国の方法が理解できないのも無理がない。

その夜われわれは在留邦人の方々の家へ分宿したので、またまた大歓迎だった。翌日新聞ザ・ビーの編集者ジャック・ウォーターマン氏から次のような批評を頂いた。

「私は25年ばかり音楽関係の仕事に携わっています。今はフレスノのダンスオーケストラの指揮をいたしております。数年前ハリウッド映画音楽にも関係しておりましたので、私にも天理の若き人々に多少はご批評を申し上げられるのではないかと思います。 去る1月3日月曜日の夜を非常に楽しく過ごすことができたことについてフロイド・ハイド市長並びに在留日本人の平博士、それにまた在留日本人の方々に感謝の意を表する次第です。(中略)私にとって、あの若いわずか15歳ないし17歳の男性グループのバンドが、あんなにも良く訓練されていることに驚かざるを得ないのです。彼らは立派な音楽家であり、その服装はたいへん印象的でした。このように素晴らしい演奏を指導されたディレクター矢野氏に対し最高のご祝辞を申し上げるものです。これほどのすぐれた楽団として大衆の前で演奏されるまでには、大変なご努力をはらわれたことと思います。最後に一言申したく思いますのは、今後音楽が鉄砲の弾の代わりに世界の平和の手段ともなりましたならば、なんと素晴らしいことではないでしょうか。音楽こそは実際、世界中に通ずる言葉です。」

−心の扉を開ける鍵−1月4日

分宿した部員が8時30分までに民泊先の方々とセントラルフレスノ教会に集合し、お世話取り頂いた人といっしょに記念撮影をしたあと、別れを惜しんで9時15分にはサクラメントに向かった。このバスはリクライニングシートで車内は広く、ゆったりしていて、疲れて気分の悪いときや、酔ったときは座席の上部のコックを回せば心地好い風が入り、とてもデラックスなものである。また、下部には荷物を入れる場所があり、扉が両方にあって出しやすく、楽器の運搬はとても便利だった。途中の景色は、広大な原野もあり、農場も日本では見られないほど規模の大きいものだった。しかもその農場主は日本人の方が多いと聞いたので、遠く離れている私たちは非常に心強く思った。とともに、われわれの使命の重大さを改めて認識した一瞬でもあった。午後1時27分サクラメント・カレッジに到着、折悪しく雨のため下車せず予定を変更してカリフォルニア州庁へ挨拶に向かった。州庁の前でいったん下車し行進をして州庁内へ入ると、ときならぬパレードに勤務者の人があわてて飛び出して来る始末、われわれはまっすぐ中へ入り、案内されたところは州知事の謁見室だった。中央正面には星条旗が飾ってあり、一同敬礼、厳粛なムードのなかで待っていると、まもなく知事に代わって副知事から挨拶があった。その後州庁中央ドームにて数曲演奏すると、アンコールの連続で次の予定が少々狂い、おかげでこのあとのスケジュールはまったくの強行であった。3時州庁を出発し、いつのまにか雨もやんで並木道の木々がしっとり濡れた中を15分ほど走ると会場に到着。楽器を下ろしはじめると、今年のローズパレードに60年ぶりに参加したというサクラメント・カレッジ・パンサー・マーチングバンドのメンバーが興味深そうな顔をして話しかけてきたが、彼らもローズパレードに出たことを非常に名誉に思っていると言っていた。練習室は音楽部のを使わせてもらったが、やはりわれわれにとって羨ましい設備のものであった。一応楽器を整理したあと、地元の在米邦人の主催で、市内のレストランへ案内された。レストランでの歓迎会では、サクラメント市長からわれわれバンド一行に対して、名誉ある「市の鍵」を頂いた。そのとき「この鍵は市の扉を開けるものではなく、市民の心の扉を開けるための鍵である」との説明があった。日本人に名誉市民としてのキーが贈られたのは今回で3度目のこと。5時46分、チャイナパレスを出発して会場に引き返し、主催者の要請で「福知山音頭」を練習し、7時開幕。重なるアンコールのうちに演奏会の幕を閉じた。

−君が代に感無量−1月5日

8時、昨晩の民泊先からいろいろとお土産を頂いたのか、ニコニコと両手一杯の荷物を持って集合。心からの礼を言ったのち、バス2台に分乗、サンフランシスコへ出発した。このバスの運転手は昨晩の演奏会がよほど気に入ったのか、今日はうって変わって朗らかでこちらまで楽しく、バスの中は久し振りに日本で各地に演奏旅行をしているときのムードが出てきた。サンフランシスコは写真で見た通り、ハイウェイと坂ばかりで構成されているところだった。その急な坂道を市電がゆっくりゆっくり登って行く様子とハイウェイを70マイルものスピードで走っている車とは対照的で、なにかしらアメリカの別な一面を見ている感じがして滑稽だった。途中金門橋に立ち寄り、小雨のなかで記念撮影をしたあと、再びバスに乗って一路サンフランシスコ空港に向かって出発した。サンフランシスコ空港では、比較的スムーズに荷物の運搬も済み、1時6分、夢のように終わったローズパレードの思い出の地、アメリカ本土を惜しみながらハワイへ出発した。機内はみんな疲れのためかぐっすり。下は青々とした太平洋が広がり、山の雄大さは例えようもないものだった。

ハワイ、ホノルル空港に着いた途端、28度という暑さのため、ムーとした空気が機内に充満し、一度に汗が吹き出てくるような感じだった。空港を降りると、飛行機のそばで記念写真を撮り、それが終わると出迎えの人といっしょにバスと迎えの車に楽器を積み、天理教ハワイ伝道庁へと向かった。途中、常夏の国らしく珍しい花々が目に鮮やかに咲いていた。伝道庁に着いて挨拶のあと、軽食を頂くとすぐバスに乗車、今晩の演奏会場であるハワイ州立マッキンレー高校にと出発した。このマッキンレー高校は、ハワイでも3番目に伝統のある高校とかで、正面は広い芝生で、その中央にやはり星条旗がそよ風にひるがえっていた。われわれはその裏側に回るとそこにはマッキンレー・ハイスクールバンドの生徒が大勢迎えに来ており、バスから降りて挨拶をしたあと、会場となる講堂へ行き、すぐ舞台準備で大わらわ。やっと準備がすんだ頃、司会をして頂くピアニストのジャコバ・フューリング氏が来られ、昨年の4月に天理に来られたこともあったので、その再会を非常に喜んでおられた。

演奏会はまず「星条旗」に始まり、次に「君が代」のメロディが流れると、長く日本を離れて苦労している日系人が多いためか、会場はシーンとし、白いハンカチがあちこちで見えた。やはりレコードでなく、実際に日本人が演奏している姿を見ると感無量のこと、と思うとこちらまでジーンと胸打つものがあった。その後、日本民謡やポピュラーソングを演奏したが、予定の10時になってもアンコールの拍手が鳴りやまず、全員起立のままアンコールの曲が演奏され「上を向いて歩こう」では拍手とコーラスが入り混じって、本当に楽しそうだった。指揮者の矢野先生はアンコールに応えて舞台に出るにも汗が流れハワイではあまり使わない大きな扇風機もなんら役に立っていないかのようだった。演奏が終わると、地元の指揮者の方が来られ、「演奏技術とともに、その規律の正しいのには驚いた」と一様に言っておられた。部員はあと始末が終わるとマッキンレー高校の生徒が差し入れしてくださったお菓子とジュースを頂きながら、楽しい一日を思い返すように、いろいろと話に花を咲かせていたが、11時過ぎたので再びバスで宿舎となる天理教ハワイ伝道庁へ帰り、夜食を頂いて各部屋に別れた。1時消灯。

−ワイキキでの演奏にびっくりされる−1月6日

ハワイに着いてからは毎日28度を越す暑さで雨の心配はまったくなく、日陰に入るといつも心地好い風が吹き、まことに申し分ない気候でこんなところだといつまでもいたい感じがして、あと2日で日本に帰ると思うと少々残念だった。

8時50分、明日出演するフラボウルのリハーサルのためにホノルル球場へ出発。会場のホノルル球場まで約20分ほどで到着。すぐ練習を開始したが予定より早く終わったので、残りの時間はコダック社のフラダンスを見学するためにワイキキへ直行した。フラダンスを見学してから、そこに来ている観衆の人たちに2、3曲演奏すると、突然のバンド演奏に見学に来ていた人はびっくり、目を白黒させていた。その後マッキンレー高校バンドとの交歓会に出るためワイキキを出発し、椰子の並木を走ってハワイ気分を味わっている間に、マッキンレー高校に着いた。高校に着くと昨日世話して頂いたバンドの人が出迎えに来ており、食堂へ案内して頂き、フランシス・ふで子・佐々木という人の司会で交歓会が始まった。食堂はなかなか立派で、その設備もデラックスなものであった。交歓会は4つの大きなテーブルにそれぞれマッキンレーと天理高校の生徒が半分ずつ並び、部員の面々も真剣な顔をしてなにやら話をしていたが、果たして通じたかどうか。食事を頂くと早速音楽教室で公開練習を行った。練習はハワイ音楽をとくに指導してもらうためカウリリー・アヴィナナイ先生(音楽部長、コーラス部指導)に指揮して頂いたが、終わってからも非常に喜んでおられた。このあとマッキンレー高校の生徒と合同で、マーチ「星条旗よ永遠なれ」をヘンリー宮村氏(音楽部吹奏楽指導)の指揮で演奏し、終わってからも校内を行進してバスに乗車、ハワイ総領事館でのティー・レセプションに出席した。

領事館ではすぐ手前で降りてパレードをし、正面玄関で演奏したあと、中庭の演奏会場へ行ったが、風が強くて室内で演奏することになった。ティー・レセプションはハワイの各高校生の代表3、4名ずつ(日本語研究生)と隣のミッションスクールの女の先生たちも招待されていて、日本から来た高校生として興味があるのか、盛んに話しかけ室内は笑い声であふれていた。レセプションの後半は天理高校吹奏楽部の演奏で締めくくられた。5時13分、盛んな拍手のうちに演奏も終わり、玄関や中庭で記念撮影のあと、5時45分領事館を出発。今日もなかなか忙しい一日だったが、ハワイの気候が良いのか、みんなの顔も朗らかそうだった。

−待望の海水浴とショッピング− 1月7日

今日は午前中が見学、ショッピング、午後は海水浴とフラボウルに特別出演という予定で、9時伝道庁を出発し、まず最初にヌアヌパリに行き、ついで外人墓地を回ってから、みんな一番期待しているショッピングに行った。約2時間ほどだったが、結構目的が叶えられたのか、両手にいっぱい抱えて帰ってきた。昼食はワイキキの浜辺でハワイアンのメロディを聞きながら、遠くでサーフィンをする人も見えるところで食事をしたが、味がいっそうアップした感じだった。4時半にいったん伝道庁に帰ってフラボウルに出演する準備をし、会場に向かった。バスで行く途中はここにも日本と同様の交通マヒでバスが進まない。あとから来た海兵隊のバンドも交通ラッシュで時間が遅れ、結局開会のときは天高のバンドが代わってアメリカ国歌を演奏した。8時52分、ハーフタイムにはわれわれのドリルを告げるアナウンスがあり、「天理ハイスクールバンド、ゴー・ゴー・ゴー」の合図とともに、まばゆいくらいのライトに照らされた芝生の上を、紺の背広に白いズボン、赤い羽根も勇ましく、日本男児ここにありとばかりに、2万5000の観衆の前でドリルをし、遠来の客に対しての拍手を受け、一同それに応えるべく力いっぱいの演奏をした。ドリルが終わるとフットボールを見学し、終了後は日本民謡やポピュラーソングを演奏しているといつのまにか多くの観衆が取り囲み、アンコールの連続に時間の過ぎゆくのも忘れるほどだったが、11時を過ぎるに及んで、遅くなったのでバスの乗り場まで行進して行くと、ぞろぞろとついて来て、最後は歓声に送られて球場を去った。

−複雑な心境で帰国の途に−1月8日

昨日の就寝は12時を過ぎていたので、今日はいつもより起床を遅らせたが、それでもみんなの顔を見ていると眠そうだった。8時45分朝食を済ませると、すぐ帰国準備のため、いったん各部屋に分かれて荷物の整理にかかった。渡米前は一つだけだった荷物なのに在米邦人や民泊先の方に頂いた土産や友だちに買った土産のために、みんな頭を抱えてしばし荷物の前に座ったまま、さかんに知恵をしぼっていた。11時15分出発準備が完了したので、ホールで昼食を頂いたのだが、伝道庁長の好意で特別出演のフラダンスを見せて頂いた。この女の人は現在ジュニアハイスクールの5年生とかで、われわれの演奏会も聞きに行ったが、あなたたちは本当に学生なのか、と改めて聞かれる始末、そのせいかわれわれのアンコールにも快く応えてくれて、約1時間ほど踊ってくれた。

ゆっくりとした昼食を終えると、今度はバスとトラックに楽器を積み込み、そろってお礼の挨拶、出発時間が迫ってきたのでバスに乗車し、別れの言葉も尽きぬまま、ハイウェイを空港へと急いだ。

2時、空港へはお世話になった伝道庁の人々や、マッキンレー高校の先生、そしてバンドのメンバーが見送りに来てくださり、部員の一人ひとりが首にチューインガムで作ったレイを掛けて頂き、笑顔でタラップを上がったが、みんなに手を振っている顔を見ていると、日本にも帰りたいし、ハワイにももう少しおれたらと、一様に複雑な顔をしていた。

ハワイでの数日は、とても素晴らしいものであった。目を閉じるとワイキキの海辺で泳いだり、フラダンスを見学した浜辺で演奏してみんなをびっくりさせた思い出などが走馬燈のごとく走り去った。

2時35分、ジェットエンジンの音も軽やかに、思い出の地ホノルルを出発した。かくしてわれわれは、非常に強行なスケジュールであるにもかかわらず、無事誰一人の故障もなく、1月9日、午後7時50分元気に羽田空港に降り立ったのである。