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第4章 吹奏楽部復活

第8節 スクールバンドとして復活

二代真柱様のひとことで

中山正善二代真柱様は、前にも述べたように、そもそもバンドが誕生するきっかけとなった船場楽団の指導者である矢野清を、梅谷忠雄に命じて天中音楽部吹奏楽班の指導者として就任するように、大きな親心をかけてくだされた。誕生間もない天中バンドを我が子のようにして可愛がってくださり、本部の行事にもよくお使い頂いたばかりか、船場楽団が解散されると、楽器を天中に持ってくるように、これまた梅谷に指図され、そのお蔭をもって当時のバンドが一気にメンバーの充実をみたのであった。

また、ご自身の誕生会にも必ずご招待頂いて、演奏する栄を頂戴したのである。戦前から戦後までこの誕生会は続けられて、楽朋会としても何回となくお騒がせに参上している。二代真柱様ご自身はスポーツマンとしてその方面でのご活躍が教内外に知られているが、柔道やラグビーばかりか、吹奏楽部にあっても生みの親、育ての親として、大変お心を砕いてくだされたことは案外知られていない。戦後潰れかかっていたバンドが復活するのも、二代真柱様のおかけくだされた「ひとこと」のお蔭であるし、また、ずっと時代を下って、お出直しなさる少し前、最初にローズパレードに参加出来ることになったのも、まさに二代真柱様の親心のお蔭であることは銘記しておかなければならない。

戦前、初めてバンドの演奏をお聴き頂いた昭和17年のコンクール直前の出来事で、「にをいがけのつもりでやるように」というお言葉をくだされたが、バンドが全国的に認識されるようになってからはなおさら、にをいがけの御用を務められるようなバンドであってほしいとのお心は終始一貫していた。

復帰懇願に幾度も大阪へ

昭和24年度がスタートした。バンドはまだ少人数ではあるが、何とか持ちこたえている。4月に入ると新入生が入ってくるようになった。

御誕生祭の祭典後に撮った写真には1年生の顔も何人か見える。しかし、引原部長を中心に18人で全員である。この日は祭典後に天理教館の改造こけら落としが行われ、朝比奈隆指揮関西交響楽団が演奏している。椅子席に改装された天理教館、当時の天理(その頃はまだ丹波市町と呼んでいた)で初めて出来たホールである。ホールと呼べるのかどうかは別にして、この天理教館で、あの「夕鶴」が初演されたことは有名であるし、また、後にはバンドの練習場となった建物である。

翌4月19日は、天理教体育大会の第1回大会が開催されている。この大会は以後昭和40年代中頃まで続き、4月の行事のなかに組み込まれておぢばの賑わいを一層のものにした。

前年に学制改革が行われて、学校制度の上では中学校と高等学校に分れはしたが、バンドはこの後もしばらく中学、高校合同で活動することになっていく。いわゆる「天理スクールバンド」である。昭和23年の段階でもし分けるとなると、それこそバンドは確実に崩壊したであろう。高校生は10人もいなかったのだから。

5月には新設された天理大学の第1回入学式が行われている。戦後の混乱期からようやく脱して、新しい組織や学校が出来上がってくると、暗雲のなかに一条の光を見るようで、何かしら心踊り、希望が湧いてくる。この頃はそんな旬であった。

バンドでも徐々に変化があった。5月27日には久し振りに関西吹奏楽連盟の行事に参加したのである。場所は菖蒲池野外劇場。ここで矢野清とバンドの再会があった。当時も連盟の役をしていた矢野清は、行事の主催側の一人として来ていたのだ。それまでのバンドは各自各パートが、それこそ適当に集まってやっていたに過ぎず、基礎的なことや細かい音楽的なことはどうしてもいい加減になっていたようで(こんなことを書くと当時の先輩諸兄に申し訳ないが)、このとき矢野清によって初めて管楽器のチューニングについて教えられたと谷口眞が語っているような状態であった。演奏曲目は「愉快な行進」「剛毅」の2曲であった。出演メンバーは16名。矢野清に早く復帰してもらいたいとの思いはこのときを境にして一層強く部員が感じるようになった。

矢野清をもう一度指導者にという願いは、以前から部員同士が持っており、最上級生は何回となく大阪で出演していた軽音楽バンドまで足を運んで、演奏が終わるのを待って説得というか、懇願するのである。しかし、これまではなかなかいい返事がもらえなかった。しょぼくれておぢばまで電車に揺られながら帰ってくる部員の心はどんなであったろうか。心倒して帰ってきてみるとバンドの状況は相変わらずである。やはり矢野先生に来てもらいたい。そう思うと、また大阪まで通うことになる。そんなことが何回もあったであろう。

当時の部員たちの、より良い音楽をするにはやはり矢野清が必要なんだという熱烈な思いは、バンド復活の大きな力になっていくのである。二代真柱様とこの生徒たちの情熱がうまく噛み合ったと言えようか。

7月26日は婦人会総会と体育大会夏季大会の開会式に出演。8月13日に甲子園球場での高校野球開会式に出演。このときのバンドのメンバーはどうなっていたのだろう。そしていよいよ陸上選手権大会である。

夏休み中人数集めに汗だく−矢野清復帰−

この年の夏に、橿原競技場で第33回全国陸上選手権大会が開催されることになり、その式典音楽をスクールバンドが受け持つことになった。これは当時体育連盟の役員を二代真柱様がお務めくださっており、「うちの学校のバンドで務めさせていただこう」と仰られたのであろう。早速学校に問い合わせてみると、とてもそんな大役がつとまるようなバンドの状態ではなかったのだ。まず、楽器がない。部員が足りない。それから、そのときの条件には30人のバンドというのがあった。「よし、楽器を買ってやれ、それから部員も集めて、指導には矢野に戻ってもらうように」との話があったと推測される。現在20人にも満たないのだから、早速部員を集めなければならない。この話が部員にもたらされたのは夏休みに入って間もない頃のことであった。矢野清がバンドの指導者として復活したのは、記録上では6月となっている。実際はもう少し後だったかもしれない。

さあそれからが大変。まず、部員を確保することが第一。しかし、運悪くすでに夏休みに入っており、寮生はほとんどの者が帰省してしまっている。よし、自宅生にターゲットを絞ってと、「暇そうにしている中学生を中心に声をかけた」と言うように、部員は手分けして勧誘に走り回った。夏の暑い中ではあるが、「矢野先生にもう一度指導してもらえる」「新しく楽器が買ってもらえる」「30人のバンドで演奏出来る」、そんな喜びの気持ちが暑さを忘れて走り回らせたのである。

しかし、そうすぐには人の確保も出来ない。順調にいった者もあるが、なかなか難儀をしたようだ。どうしても30人必要であった。最後の手段として女子をも対象にして声をかけてみるとようやく29名。最後の1人が足りない。同級生の弟で、今は小学生なんだが、と部員の友だちから持ちかけられた。矢野清に聞いてみると「それならプラカードでも持たせておけ」との返事があり、とうとう小学生にまで加わってもらってなんとか30人に形が整った。その小学生が後藤豊郎(昭和31年度卒・故人)である。

それからの練習がこれまた大変。本番は8月27日である。あまり時間がない。初心者を一から指導したり、それこそ五線譜の読み方から、楽器の構え方、歩き方、何から何まで一掛けで先輩を中心としての特訓が始まった。曲は「陸上日本の歌」である。このときに入部して、初めて楽器を持ったなかの一人である井上昭夫は、今も自分のパートを暗譜しているという。強烈な練習が想像出来る。

当日、会場の橿原競技場で二代真柱様と矢野清がにこやかな顔で写っている写真を見るにつけ、このときがなかったら今の吹奏楽部が存在しなかったことを痛感し、ただただ感謝の気持ちで一杯になるのは、当時の部員だけではあるまい。こうして人数の面でも、楽器の面でも緩やかではあるが、復活したのである。全日本のコンクールに初出場してから7年目の夏のことであった。

予餞会でプロのような演奏

復活した後、行事はすぐさま増えた。10月24日には敷島大教会60周年記念祭、26日には新制高等学校が誕生したのを記念して「開校文化祭」が開かれた。このとき「インドの女王」「森の鍛冶屋」など戦前に演奏した曲が再び蘇っている。これまでしたくても出来なかったのである。このプログラムには37名のメンバーが載っている。29日には天高運動会。11月に入って23日に天理総合学園音楽会が改装なったばかりの天理教館で開かれた。小学生から大学生までの出演者があって、さらに大阪音楽学校の木村四郎先生の賛助出演を得て盛大であった。27日に同じく天理教館で青年会総会が持たれている。

年が明けて昭和25年、2月11日に第2回全関西吹奏楽連盟大演奏会が大阪朝日会館で開催されて、久し振りの大阪での演奏が行われた。約40名の演奏であった。3月1日は卒業生予餞会である。ここでは、ミュージカルばりの出し物が生徒たちの手で行われて、当時演劇部の顧問をしていたのか、数学の高木先生は、あまりにもその素晴らしさに「お前らプロみたいやなあ」と感嘆されたという。/p>

復活に青春時代のエネルギーを費やした最上級生6人はこの春卒業していった。この6人の活躍については、学校からとくに賞状が梶本國彦の手に渡されている。「楽器のなかったときに4本も楽器を寄付したということに対してもらったんじゃないかな」と謙遜して語っているが、そればかりではあるまい。

余談ではあるが、楽器紛失のところでも触れたように、フルート・ピッコロ類は1本もなかった。ある日、GHQからの視察があって、その際剣道の防具を望まれた二代真柱様は、本部内で誰か持っているものがないか尋ねられたそうだ。父親から「お前の防具を持っていくから」と、当時梶本の持っていた総漆の黒胴の防具を差し出したのである。しばらくして、二代真柱様から「何か欲しいものは」とお尋ね頂いたときに、梶本は迷わず「ピッコロ」とお応えしたのだそうだ。ピッコロ代3000円を持って後日実際にソハマ楽器まで買いにいった小松崎雄壽も「真柱様からお金を頂いたとは聞いていたが、そんな事情とは知らなかったなあ」と語っている。黒胴が今残っていれば相当な値打ち物であった。「おしいことをしたかなあ」と笑っているが、バンドのことを第一に考えていた梶本の熱意は、やはり賞状に値するものであろう。

新年度に入った。最上級生はたった一人、笹田博茂だけである。心細かったに違いない。しかし、卒業したばかりの谷口眞はドラムメージャーとして残り、小松崎も協力して矢野清を補佐してスタートしたのである。とくにこの年度の4月は行事が多かった。17日天中育友会総会、18日教祖御誕生祭、同日陽気社創立1周年記念式、19日第2回天理教体育大会、20日婦人会総会、21日教校創立50周年式、23日三笠宮殿下、妃殿下御前演奏と続いている。

前年に楽器を揃えて頂き、人数も確保出来た。ところが陸上大会は夏の大会であり、出演した生徒たちも夏服といえば白いシャツを着てさえいればよかったが、以後行事が次第に増え続けると、冬用の服がどうもそろわないのだ。宮様の御前演奏のときにはまだ学生服に体操帽のようなものをかぶっている。制服といえるものが出来たのは昭和27年秋で、この時期からもう少しあとのことである。

いっきにシンフォニックバンド結成

さて、行事は多くなり、年に数回しか演奏の機会がなかった戦後すぐの頃とは比べようのないほど忙しくなってきた。8月の夏休み中ならともかく、10月でさえ5回の行事が記録されている。なかでもシンフォニックバンド結成記念演奏会が道友社主催によって天理教館で開催された。数年前まで10数人でやってきたバンドが、今こうして見違えるように成長してきたのである。 当日のプログラムが残っているので、そのなかから少し長くなるが挨拶を引用してみよう。

往年関西に於てはおろか、全国の斯界にその名を馳せた天理中学校吹奏楽班も、昭和19年以来世情の種々の障碍と共に衰微し、僅かに天理高校生及同中学生十数名によって編成されていましたが、本教としても大編成の吹奏楽団の必要性に迫られ、昨年6月末真柱様の御内命により、梅谷船場大教会長を後援会長に御指名、関西吹奏楽連盟常任理事鳥井輝二氏(船場・三船分教会長)に図り大編成のバンドの再建にかかり、往年の指導者矢野清氏(船場)を再び講師として迎え、文教部の多大の御支援のもとに楽器を整備し、天理スクールバンドとして再発足致しました。以来管内学校の文化の一端として活躍し教内諸行事には勿論、県の行事或は朝日新聞社主催の大行事等に参加出演して好評を博して参りました。其後も矢野氏の献身的な編曲並楽譜整備及指導、それに先輩諸氏の援助指導により、部員は休暇も返上猛練習の結果演奏技術も益々向上し、交響楽等の演奏も可能の域に達しましたので、今回管内諸学校の部員に天理高校、天理中学校のOB楽朋会員も参加、天理シンフォニックバンドの結成をみるに及び、この秋のシーズンに結成記念演奏会を催す事になりました。バンドの構成は、 「天理シンフォニックバンド」=天理大学、天理高等学校、天理中学校、天理小学校の在学生、並びに天理高等学校及同中学校のOB、楽朋会会員に依って構成。「天理スクールバンド」=天理高等学校、天理中学校、天理小学校の在学生の部員に依って構成。

以上のような挨拶が載っている。演奏曲目がすごい。サン・サーンスの英雄行進曲に始まって、ベートーヴェンのコリオラン序曲、リストのハンガリー狂詩曲第2番、シベリウスのフィンランディアと大曲が続いている。さらに、ショパンの軍隊ポロネーズ、イワノビッチの東洋の薔薇、ビゼーのカルメン、アルルの女でプログラムを閉じている。メンバーは全部で49名、そのうち楽朋会員は、クラリネットの山本薫、大谷好之、バスーンが明山朋長、トランペットが谷口眞、ビューグル小松崎雄壽、バリトン西村喜次、以上6名の出演である。挨拶の中でも述べられているが、小学生も加わっている。前年プラカードを持った後藤豊郎もこのとき6年生でトランペットを吹いているのだ。

戦後最初の楽朋会総会は天中作法室で

昭和26年は全関西吹奏楽コンクールの再開された年。1月28日には大阪大手前会館において「全関西中華演劇学生連合会発会式」が開かれた。スクールバンドはこのとき初めてオケピットで演奏しているが、これは劇伴だったのだろうか。40周年記念誌の年譜に大阪教区大会と記載されているのは間違いであり、訂正しておきたい。2月には予餞会、そして第1回関西吹奏楽祭が大阪朝日会館で開かれて出演。3月15日桜井小学校演奏会が同校講堂で開催された。フィンランディア他8曲演奏。他に行進演奏も行われている。

いよいよ新年度が始まり、4月の行事の真っ直中、御誕生祭当日に「楽朋会第1回総会」が天理中学校作法室で開かれている。今田善雄、矢野清をはじめとして20数名が出席している。この時期が一番集まりやすいということで声がかけられたのか、それとも、急に開催が決まったのか、いずれにしても現役時分の緊張した顔つきはどこにもなく、喜々とした笑みを満面にたたえて仲間同士打ちとけた様子が、写真によく現れている。 これ以後毎年4月のこの時期に総会が開かれ、秋には例会が、そして正月には新年会がというように、楽朋会の集まりも年々盛んになっていくのである。お酒を飲める者も、飲めない者もともに現役時代を振り返りながら、ああしたなあ、こういうこともやったなあと口角泡を飛ばしながら語りあっていくうちに、年齢を越えて、同じ音楽を求めていった仲間意識が強まり、連帯感が生まれていく。そこに楽朋会の集まりの良さがあり、以後引き継がれていくのである。

全関西コンクール復活−戦後初の優勝−

4月の行事を無事おえると5月9日に奈良市済美小学校を会場にして「奈良県児童音楽祭」が開催され、プログラム最後にフィンランディアを演奏。20日には大阪日赤病院に慰問演奏。6月は京都で日本音楽教育学会研究発表会に出演。天理スクールバンドは第1日目の2番目に出演、ここでも「フィンランディア」と「ペルシアの市場にて」を演奏している。夏休みは甲子園で演奏。2学期に入ってすぐの9月15日には京都府園部高校に演奏旅行に出かけている。戦後復活してから初めて遠方の地での演奏会である。

10月に入ると行事が多い。13日は天理中学校第5回運動会。翌14日第4回全国高校優勝弁論大会、24日25日両日が天理高文化祭。29日が天理大学自治会と講演部が主催した「全国宗教大学招待優勝講演大会」が開かれている。いずれも天理スクールバンドとして出演。

このうち、天理高文化祭には両日とも出演して、初日は谷口眞が指揮台に立ち、「森の鍛冶屋」「千代田城を仰いで」「ラ・クンパルシータ」「インドの女王」他を演奏した。25日は矢野清指揮「士官候補生」「カルメン」「東洋の薔薇」「詩人と農夫」「勝利の行進曲」を演奏。この文化祭は芸能祭の部と展覧会の部に分かれており、バンドが出演した芸能の部の準備委員長は吹奏楽部のキャプテンでもある井上良明が務めている。各日とも10を越えるプログラムが予定されており、合唱、創作舞踊、劇、それにバンドの演奏などがあった。

11月には、天理中学校文化祭、奈良県私立学校文化祭、18日には天皇陛下御来和御前演奏。そしていよいよ12月16日に、戦争によって中断していたコンクールが復活されたのである。8年間中断していたことになる。会場は戦前には何度も演奏したことのある大阪朝日会館。全関西吹奏楽連盟は現在の近畿6府県に中国、四国、北陸を加えたもので、その後にそれぞれが独立するまで広範囲の学校等を統括していた。加盟団体も少なかったからであろうか。高校の部出場は何校あったのか。課題曲はスーザ作曲「士官候補生」、自由曲はシベリウスの交響詩「フィンランディア」であった。

1年生から3年生までまるっきり初めての経験であった。どんなに緊張したことだろう。ドラムメージャーの谷口も初めて。ただ、矢野清は久し振りにタクトを持って臨んだ舞台で、感慨も新たにしたことだろう。戦後まもなく復活した他の学校に比べて、天理は少し遅れをとっていた。それどころか、復活出来る見通しさえなかったときもあった。しかし、こうして矢野清を指導者に再び迎えて、他校に追いつくどころか、一気に飛び越して関西第一位を獲得したのである。復活したコンクールにおいて、天理高校吹奏楽部は新たな歴史に向かっての幸先よいスタートをきったのである。


第9節 演奏活動活発化

白ズボンと紺ブレザーの制服誕生

翌年3月、優勝記念放送の録音がJOBKで行われた。久し振りのスタジオであった。勿論部員は初めての経験。緊張しながらも喜び溢れる演奏であった。演奏がおわっての記念撮影には、矢野清の横にはNHKに勤務している荒牧亀太郎の若々しい顔も見える。後輩たちの復活を目にして胸中喜びも大きかったことであろう。

新年度に入り4月の行事は相変わらずの忙しさである。加えて4月6日は仁川ピクニックセンターに赴き、センター開きに出演。まだこのときには制服はない。学生服を着て帽子までは一応そろっているが、制服と言えるようなものではなく、靴は白あり、黒ありのバラバラである。

この年は体育関係の行事がやたら多かった。5月5、6日のヘルシンキ・オリンピック選手選抜体操競技会が天理大学体育館で開かれ、その後、高校野球の大阪予選、奈良予選、北四国予選、全国女子ソフトボール大会、全国高校野球選手権大会開会式、閉会式、水泳大会、ハンドボール大会、全国勤労者陸上競技大会、ラグビー東近畿大会など、他にもある。年間通じて十数行事が体育関係のもので占めている。やはりオリンピックイヤーだった影響もあるだろうが、体育連盟の重職をお務め頂いていた二代真柱様からのお声がかりのためでもあろうか。

体操競技会にはバンドが出演したのかどうかはっきりと記録にない。この大会には、後のローマ、東京大会で活躍した小野喬選手も参加しているが、これは余談。

5月9日から11日まで名古屋へ演奏旅行に出向いている。これは布教部と愛知教区が主催して行われた「天理教愛知地方少年大会」に出演するためである。5月10日の午後1時と5時の2回にわたり、名古屋松阪屋の7階ホールにて開催されている。40名ほどの編成で、松吉部長、今田部長(天理中学)の他、指揮は矢野、OBが十数名加わっていた。前日の9日午後5時33分に丹波市駅(当時の国鉄駅名で、現在の市民会館と道友社の間くらいに位置していた)を出発。名古屋には午後9時32分着。その晩は教務支庁に宿泊。10日は午前11時から約45分、名古屋駅を出発して松阪屋まで演奏行進を行い会場入り、午後からの行事に出演。終えて午後9時30分発の夜行で早朝に帰校している。11日には西宮球場でリズム体操の何かが行われ、メンバーの内、10数名が参加。これは谷口のメモによるもので、詳細ははっきりしない。6月は22日の天理大学開学記念祭に出演、夏休み頃から野球関係の行事で、とくにファンファーレ部隊にとっては忙しい夏であった。

8月30日、全国勤労者陸上競技大会が橿原競技場で開かれるに当たり、秩父宮妃殿下がお見えになり、真柱邸中庭で午前演奏。白いズボン、白いシャツ、帽子を取っての演奏だった。このときかどうかはっきりしないが、部員の服装のことを仰られたとか。また、真柱様も5月に開かれたロータリーの総会のときに、「楽隊」の服がみすぼらしいのをご覧になって、「買うたれ」と仰ったとか。これは服のことだったのか、靴だったのかはっきりしない。

ところで二代真柱様は、バンドと呼ばず「楽隊」といつもお呼びになって、ときには御自ら指揮棒をお持ちになったこともあった。また、「矢野の棒には合わせられても、わしの棒には合わせられないのか」などと、少し茶目っ気をお出しになられたこともいくたびかあった。とにかく服装のことに関しては真夏は上下とも白でなんとかそろっているが、帽子と靴はバラバラ。そんな写真が多い。

9月23日の仁川ピクニックセンターでの第2回目の訪問のときに初めて制服が誕生した。白いズボンと紺のブレザーであり、このときにも帽子は学生帽。ドラムメージャーはダブルで、生徒たちはシングルのブレザーであった。相変わらず靴はバラバラであった。例の編み上げ靴がそろうのは翌年新潟教区地方大会に出かける頃からである。

行事の間にコンクール

昨年は戦後第1回目ということもあって、準備の関係からか12月の開催であった全関西吹奏楽コンクールは、9月開催になった。課題曲はウエイト作曲「大通りを行く」、自由曲はポール・ヨーダー作曲「ガラスの靴」であった。このガラスの靴は、昭和30年度にも自由曲として取り上げられている。筆者も入部したての頃、よく「GLASS SLIPPER 」と英語で書いてある写譜をみた記憶がある。「スリッパが靴かいな」などと小首をかしげながら感心した記憶が蘇ってくる。

それはともかく、全関西コンクールが開かれた9月21日の前にも結構行事が続いている。8月20日から見てみると、まず、甲子園大会の閉会式、23日天理プールで高校水泳大会、24日高松宮殿下御前演奏、25と26日が天理教体育大会夏季大会、30日が前述の秩父宮妃殿下御前演奏、同日には陸上競技大会もあり、9月14日県民体育大会、19日県中学校体育大会、そして21日コンクールである。

よくもまあこんなに行事をこなしながら、いつコンクールの練習をしたのであろうと思うほどだ。偉大なる諸先輩の努力に心から敬意を表したい。見事2年連続しての優勝を勝ち取った喜びは、一層大きいものであったに違いない。ただ残念なのは全国大会がまだ開かれていないことであった。コンクール優勝後もまだまだ行事が続いた。10月は6回の行事が記録されている。

11月の天理大学祭での演奏は、天理高校吹奏楽部を谷口眞が指揮、「ガラスの靴」と「旧友」を演奏している。また、スクールバンドとしてもプログラム最後に出演して「運命」「蝶々夫人」他を矢野清指揮で演奏しているが、当時大学生だった谷口らを中心とした軽音楽のバンドが出演しているのも見逃せない。

OBの活動としては先駆け的なもので、天理キューバンボーイズとして前年頃から活躍していた。メンバーをひろってみると、サックスが明山朋長、大谷好之、森田忠興。トランペットは谷口眞、鴨井次郎。トロンボーンは西村喜次。ベースが井上良明。ピアノは山本。ボンゴが小松崎雄壽。コンガ、千葉。クラベス、寺田好和。マラカスが松山弘となっている。この編成でマンボ、ルンバなどを演奏していた。また、谷口はタンゴバンドではドラムも叩いており、大谷は同じくクラリネットで活躍していた。

12月も押し迫った25日には、天理学園吹奏楽部第1回クリスマス・パーティーというのが催された。パーティーといっても大学、高校、中学と学校別対抗ラグビー試合を行い(人数を加減してバランスをとったようだ)、その後に簡単な茶話会。クリスマスパーティーを天理教の学校でなんて、と目くじらをたてずに気楽にやっていた当時のバンドの様子が目に浮かぶようだ。現在のクラブ内で行われている予餞会のようなものであったろうか。各学校から出し物も用意されていた。多忙な活動の中に見つけた少ない憩いのひとときを、ごく普通の学生に戻って楽しんだことだろう。

プログラムすべて交響曲

昭和28年も新年早々から行事が続いた。なかでも1月26日大祭当日に天理教館で開催された「交響曲発表演奏会」は、戦後復活してからの吹奏楽部の真価を問うものであり、矢野清の目指したオーケストラへのワンステップとも言えた。午後5時からの演奏会は「運命」第1楽章で始まり、続いて「新世界より」から第2楽章、「悲愴」第3楽章、「合唱」最終楽章、そして「おもちゃ」(当時は玩具と記載されている)がフィナーレを飾った。

これは25年にシンフォニックバンドスタイルでの演奏会の成功に気を良くした矢野清が更に夢を広げて、いよいよ交響曲に挑戦したものである。プログラム全編交響曲というのもすごいが、3年生は卒業を前にして大変だったに違いない。受験戦争とか、受験地獄なんてものはこの頃にはなかったのかもしれない。とにかく、メンバーは全部で57名。中学生から大学生までを含んでいるが、新しい曲をこれだけこなすんだから、相当な練習が必要であろうし、これらの曲に関しては矢野清が編曲をしている。指導もして、編曲もしてと、行事の合間をぬってのことでもあり、大変というより、超人的なことであった。

昭和28年度の始まりは例年のように多忙な4月から始まった。5月も例年以上に行事が多い。6月には行事がないと記録にはなっているが、どうであったか。7月からは夏休みを迎えて体育関係などの出演が多くなっている。まず7月18日は高校野球の大阪予選開会式が藤井寺球場で行われ、23日は奈良県予選が橿原球場で、25、26日は全国水泳大会が天理プールで、また、26日には全国大学野球大会が天理グラウンドで開催されて、これらに出演。

夏季演奏旅行は中村則之との出会いから

そしていよいよ新潟への演奏旅行である。この年は教祖70年祭が打ち出された年で、新潟教区での決起大会に招かれて出演したのである。大会での式典には音楽がなくては盛り上がりに欠けるとのことであった。当時新潟教区の主事としてこの行事を担当していた北越分教会長中村則之(楽朋会顧問、故人)との出会いはこの頃から始まっている。

8月3日におぢばを出発した。大会は5日である。4日の夕方に「納涼演奏会」が市内礎公園で行われた。野外演奏会である。曲は「運命」「イル・トラヴァトーレ」「ペルシアの市場にて」「玩具」「アルルの女」「フィンランディア」「森の鍛冶屋」などであった。午後7時から開演されて2時間くらいであろうか。ひょっとしたら、アンコールにつぐアンコールでもっと長時間であったかもしれない。翌日が本番。午前9時から新潟市公会堂で開催された「天理教新潟地方大会」では、70年祭の歌の伴奏や、午前中1時間、午後2時間ほどの演奏を披露している。

この後矢野清は中村則之との親交を深めていく。矢野清は当時集会員をしていた中村則之に「このバンドで是非とも全国の各教区に演奏旅行をして、にをいがけの御用の一助にお使い頂きたい」との申し入れをしている。中村も矢野と気が合ったのか、翌年にも高田、十日町、長岡、新津にと新潟県下を演奏旅行する機会が与えられている。とくに十日町での演奏会は中村則之の地元でもあり、後年中村は、当時の矢野清との出会いを折りまぜながら、楽しげに語ったものである。中村則之が40周年記念誌に書いているものを引用してみると、十日町での感動がよくわかる。

   …(前略)とくに十日町では市民に与えた印象は素晴らしいものでした。演奏も素晴らしかったが、学生が揃って神前で参拝するのを見て、当時戦後の荒廃した思想の中にあって神様を拝むということは驚異そのものであり、それにもまして、演奏会終了後、学生達が箒を持って場内の清掃を始めたものを見て聴衆の人達は唖然としておりました。それ以来矢野先生とは心を許す仲となり、その後32年、36年と十日町へ来演されました。

こうして中村則之が感心したバンドの演奏や、その行動の一部始終が、彼を通じて当時の橋本布教部長に報告され、バンドをにをいがけに活用すべきだとの意見が出されたのである。中村則之と矢野清との出会いがなかったら、演奏旅行はなかったかもしれない。また、ローズパレードに参加したいのだがという矢野の思いを実現するように本部に強く働きかけたのも中村則之であった。九分九厘絶望的であったローズパレード参加が実現したのは、もちろん二代真柱様の大きな親心と、そして中村、さらに本島大教会片山■志の協力があったのである。矢野清はこの後も北越分教会をたびたび訪れて、家族同様のもてなしを受けながら、鼓笛隊の指導をしたり、鼓笛講習会用の編曲の仕事をするようになったのは、数年後のことである。

新潟から帰ったバンドは、13日が甲子園での開会式、15日は天理プールでの駐留軍水泳大会、19日は同閉会式、20日が高校野球閉会式、25、26日両日は天理教体育大会夏季大会。こうして忙しい夏休み中の行事を終了した。

課題曲も手直しをして、独特の天理サウンド

9月20日は和歌山県営総合グラウンド完成記念体育会に出演、約30分の演奏。曲目は「銀の女王」「イル・トラヴァトーレ」「荒城の月」「ガラスの靴」の4曲であった。

そして10月18日が全関西吹奏楽コンクールである。課題曲は「銀の女王」、そして自由曲は「イル・トラヴァトーレ」であった。会場は大阪朝日会館である。この当時は、課題曲でさえも出場団体が勝手にアレンジすることを認めており、編成によって書き直したりすることは当たり前のようになっていたようである。だからいい意味で「天理の音は少し違うぞ」と言われていた。年間何十ものステージを経験して、舞台度胸はつくし、他のどの学校もしていないような演奏経験をしているのだ。それが天理高校の強みだった。結果は優勝。これで3年連続しての優勝を飾った。それにしても前日が天理中学校の運動会であり、やはり例年同様に出演しているのだから驚きである。

鮮烈なデビュー、芸大奏楽堂での演奏

11月16日、関東吹奏楽コンクールが開かれている。関東連盟では前年に戦後復活のコンクールが再開されて、この年に全日本連盟の再結成が進められていたのである。11月15日には、その会議が東京で持たれることになっていた。会議というより、この日全日本吹奏楽連盟が再発足したのである。しかし、実際に全日本吹奏楽コンクールが開催されたのは、昭和31年からであり、この年から3年後のことである。それはともかくとして、3年連続で関西コンクールを制した天理スクールバンドは関東コンクールに特別出演することになったのだ。

丹波市駅を夕方出発し、夜行列車「大和」に揺られながら、東京まで10数時間の旅は長かった。東京芸術大学奏楽堂での演奏は昼からだったようである。演奏曲目は3年連続優勝したそれぞれの年の自由曲「フィンランディア」「ガラスの靴」「イル・トラヴァトーレ」であった。演奏が終わった。満場を埋め尽くした聴衆から割れんばかりの拍手が延々と続き、アンコールを要求している。指揮をしたのは谷口眞。矢野清は舞台の袖で演奏を聴いていた。曲が終わって谷口が袖に引っ込むと、関東連盟の役員が近寄ってきて、アンコールの催促である。聴衆からも「雷神!」の声がとんでいる。「雷神」はその年の関東コンクールの課題曲で、それを演奏してほしいとの要望であろう。だが、谷口が矢野に尋ねると首を振っている。この曲はトランペットにドレドレのトリルが出てきて、なかなか上手くいかなかった。矢野はそのことが頭の片隅にあった。だからアンコールの声にもどうしても首を振らなかったのである。それでも声援はやまなかった。仕方なく幕を閉じようとしたのに、今度はロープの調子が悪くなって途中で止まってしまった。幕がいくらか内側に寄ったところで開け閉め出来ないようになったのだ。さあ大変。幕が閉まったらやめられるのに、幕が閉まらないからお客さんは拍手をやめない。連盟の先生はやってくれと言うし、矢野はやるなと言うしで谷口は困ってしまった。結局、後でドリル演奏があるので、時間がないということで納得してもらって部員は舞台をようやく降りることが出来たのである。

その後上野公園で夕闇迫る時間ではあったが、ドリルを披露した。シグナルバトンと笛だけで見事に、しかも整然と動くバンドを見て聴衆は2度びっくり。指揮は伊藤大阪府警察音楽隊長である。伊藤隊長は上京に先立ち天理高校と練習をしたのだが、それにしてもきびきびとしたアメリカ式のバトン操作と、そのバトンに合わせて一糸乱れぬ演奏体形をアピールしたことについては、驚嘆の一語であった。そう聴衆は感じたであろうし、素晴らしい演奏を披露して、聴衆を圧倒しただけでなく、マーチングバンドとしての方向性をも示したのであった。

とにかくこの演奏会での衝撃はすごかった。関東からしたら、関西吹奏楽連盟が26年から復活してコンクールをしているようだが、関西のレベルがどの程度のものなのかもよく分からず、全日本吹奏楽連盟を再スタートさせる機会に、是非評判高い天理の演奏を聴いてみようということになったのである。その結果、度胆を抜かれたのは関東の人々であった。これでは関東のレベルはまだまだ知れたものと悟ったかどうかは知らないが、結局全日本吹奏楽連盟は再結成されたものの、コンクールはしばらくお預けの形となった。一歩も二歩も天理は進んでいたのである。

夏季にをいがけ演奏旅行始まる

昭和29年度。この年から本格的な夏季演奏旅行が始まっている。前年に新潟を訪れて大活躍した天理スクールバンドを、是非にをいがけの上に活用しようと、中村則之や矢野清が強く布教部などに働きかけて実現したものである。その手始めとして今年も新潟県下4都市において演奏会が催された。

8月7日から11日までの5日間である。いずれの会場も超満員。演奏もさることながら、高校生らしいきびきびとした態度や演奏会終了後の清掃ひのきしんは、大勢の市民の心に感動を与えた。この当時の演奏会でよく演奏された曲は「ベートーヴェンの想い出」「ガラスの靴」「メダリオン」などであった。おぢばに戻ってくるや8月13日には甲子園球場での全国高校野球選手権大会開会式に出演。終わるとその足で香川県丸亀市にある本島大教会まで移動。これは本島で合宿して集中的に練習しようと、小松崎雄壽や西村喜世三らが奔走して決められたものだ。なんとかより以上のレベルになるよう夏の合宿が企画されたという。それが大教会の好意で本島で夏季合宿が行われた。これ以後も毎年合宿を行っているが、こうして遠路遙々本島まで赴き合宿したのはこのときが最初である。これ以後も夏の合宿を遠方の地で行ったという記録はない。美しい砂浜でラッパを吹くのはさぞ気持ちのよいものであったにちがいない。梅谷忠雄会長も同伴している。19日には丸亀市での演奏会。日本最古の回り舞台が会場になった。

当時の演奏旅行はどのようなものだったのか、ちょっと振り返ってみたい。まず、移動は汽車か電車。バスなどというものは稀であった。とくに遠路になればなるほど、楽器もトラックでというわけにはいかなかった。なぜなら当時の道路は今ほど整備させておらず、時間通りに確実に着く保証がないからであった。だから、大きな楽器も一切電車に積み込むわけである。それに部員の数はせいぜい40人ほどである。全員が一丸となって楽器から個人の荷物まで全部積み込むのである。短い停車時間に楽器の積み下ろしを全部しなければならない。1分、2分でやることもさいさいあった。

一般のお客さんと同じところに乗り込むことになるから、車中に入っても必ずしも席が空いているとは限らない。だからお客さんに無理を聞いてもらって楽器を置くのに苦労することになる。楽器が増えてくると楽器で多くの席をつぶすことになるので、これは勿体ないと苦心の末、左右の網棚にロープを掛け渡して、そこに楽器やらを置くようにしたり、生徒も苦労したようである。寝るところがなくて楽器を載せる網棚に寝たなどという部員もいた。後年三濱善壽は「身体が小さかったので、夜行列車などはよく網棚の上で寝たものです」と語って、当時の様子を話してくれた。

下車の1時間前になると準備が大変。車内の清掃も忘れてはならない。いよいよ目的地に到着するとすぐに楽器を用意して、駅から会場までをパレード。大勢の子供たちや若い女子学生も多くついてきた。会場は学校の体育館や講堂が多かった。午前中は学生を対象にした演奏会。各楽器の形や音色を紹介するプログラムも組まれている。夕方の一般を対象にした演奏会までの間は、市中パレードや校庭を会場にしてのドリル演奏。今でいうマーチングである。そして夕方の演奏会。アンコールが止まず、3時間を越える演奏会もざらにあったようだ。そして宿舎へ。休むのはだいたい12時をこえる。

教会では神床の前、参拝場で寝ることが多く、だから朝づとめの1時間前には起床しなくてはならない。夏の朝づとめはとくに早く大変だった。早朝から起き出して寝具の片付け、それからおつとめ、そして楽器の手入れや準備。そんな毎日が続いていく。しかし、苦しいこの経験が、演奏面でも精神面でも高校生たちをひとまわり以上大きく成長させていったのである。


第10節 全日本吹奏楽コンクール復活

「演奏に合わせて指揮」 楽朋会コンクール出場

夏の行事をおえて、秋はいよいよコンクールのシーズンである。今年は課題曲が序曲「メダリオン」。そして自由曲は「ベートーヴェンの想い出」である。10月24日の全関西吹奏楽コンクールは今年も大阪朝日会館であった。自由曲にした「ベートーヴェンの想い出」は矢野清による編曲のものと、ドヴァニーニのものとがあったそうで、このときは矢野清編曲のものを使っている。指揮は小松崎雄壽であった。

矢野清は何故棒を振らなかったのか。前年まで3年連続して関西を制し、また、関東コンクールでの演奏が絶賛されると、いろんなところからまた雑音が聞こえてきたようだ。矢野清はこの頃も関西連盟の理事をしており、理事が棒を振ることに対する中傷があったかもしれない。常勝天理はすぐ標的にされたのである。矢野清が亡き今はこれも想像でしかないが、そんな事情か何かがあったようだ。そして小松崎がタクトをとった。見事な優勝であった。矢野は喜んだことであろう。

そして楽朋会の長い歴史の中で、最初にしてたぶん最後であろうコンクール出場が、このときである。昭和29年10月24日、第4回全関西吹奏楽コンクール一般の部への出場であった。演奏するメンバーは29名。指揮は森川晴三郎、自由曲「ハンガリア舞曲第6番」である。普段の練習になかなか全員そろわず、苦労したそうである。一般バンドの運営の難しいところでもあるが、どうしても学校のように一同が同時には集まらない。歯抜けになると練習がはかどらない。そうこうしているうちにとうとうコンクール本番当日がきてしまった。

自由曲はテンポの移り変わりが激しく、よく指揮者の技量を問われる試験問題にもなるという難曲。森川も「指揮にあわせて演奏してくれたというより、演奏に合わせて棒を振っていただけ」と語っているように、本番で初めて全員そろったようなありさまであった。審査の結果は「優勝」。母校のスクールバンドとのアベック優勝であった。上京中学校OBが楽朋会と同様に一般の部で参加しており、ことのほか悔しがったそうである。 この後、楽朋会でのコンクール出場はない。唯一の出場で優勝である。

この年もまだ全日本のコンクールが開催されなかったが、それでも年度末までけっこう行事が多かった。コンクール出場後11月には文化祭関係の行事を含めて6回。12月も年末まで4回の行事。なかでも、12月26日には鼓笛隊として模範演奏が南礼拝場前で行われている。部員が鼓笛の楽器に持ち替えて演奏したのである。この日は月次祭。まず神殿広場で演奏。真柱邸でも演奏をしてから再び本部を一周。そして帰校した。この頃から教内で鼓笛活動が活発になり、その模範としてスクールバンドが活躍することになった。鼓笛講習会で模範演技などをするようになったのもこの頃からである。

精魂つくした「運命」編曲と演奏

昭和30年に入ると総出ひのきしん行事が続いた。「七十年祭の歌」「ひのきしんの歌」がよく演奏され、モッコを担いでひのきしんする信者さんたちに喜ばれたものである。おやさとやかたの普請が盛んになってきたのである。教祖七十年祭を1年後に控えている。

5月には姫路市公会堂で2日にわたって演奏会が開催された。飾東大教会にて宿泊。演奏曲目は「運命」第1楽章。「カルメンシルバー」「ペルシアの市場にて」「アルルの女」「詩人と農夫」「ハンガリア舞曲第6番」「フィンランディア」「イル・トラヴァトーレ」「森の鍛冶屋」「ベートーヴェンの想い出」「ガラスの靴」その他である。

吹奏楽オリジナルの作品がまだまだ少なく、いわゆるアレンジ物が多数を占めている。また、このときには「越天楽」も吹奏楽用に編曲されて演奏されている。矢野清は雅楽にも素養があったので、以後も「長慶子」など雅楽曲を吹奏楽にアレンジしている。

アレンジと言えば、矢野清が編曲した多くの作品の中でも「運命」全楽章を吹奏楽用に編曲したことは特筆すべきことであろう。まさに心血を注いだとはこの作品のことをいうのであろう。戦前からこの構想をあたためていた矢野は、戦後になって発表する機会を得ている。何度となく訂正を行い、スコアーは今見るとどれが正しいのか分からないくらい鉛筆書きの上に赤や青の鉛筆で書き加えてあったりする。矢野清は戦前から「第5をやりたい」と何度も言っていたそうで、矢野晄道がよくそれを聞いても「第5」が何のことか当時は分からなかったと語っている。昭和20年代の終わりから30年代にかけてよくベートーヴェンが演奏されている。とくに演奏旅行では欠くことの出来ない曲であった。

「原爆許すまじ」感動のリピート

昭和30年。この年は敗戦からちょうど10年目にあたる。広島、長崎において原爆10周年の式典が持たれて出演している。記録係が記した行事記録から拾ってみよう。

8月4日午前6時20分天理駅集合。45分出発。勿論電車である。9時過ぎに大阪駅を出発。ソハマ楽器から差し入れのお菓子を頂いた。午後2時55分福山到着。バスに乗り換えて府中市へ。午後7時30分から府中高校講堂での演奏会。曲目は前回の姫路での演奏会とほぼ同様「運命」などである。10時20分に演奏会終了。片付けを終えてバスに乗り40分に府中高校を出発。実に手早い後片付けである。午前1時就寝。

翌8月5日は午前4時30分起床。5時50分府中駅から乗車して車中で朝食(弁当)を頂く。9時27分広島駅到着。50分から行進開始。市役所前の炎天下で演奏。午後1時宿舎である広島教区連絡事務所に到着。数曲事務所前で演奏して中に入る。夕方7時から「原爆供養演奏会」が児童文化会館で開かれた。10時前に終了。

翌日がいよいよ本番。会場は平和公園。午前8時から始まった。黙祷が捧げられ、鐘が打ち鳴らされるとあちこちから咽び泣く声が聞こえてくる。「霊祭歌」「原爆許すまじ」などコーラスをまじえての演奏。昼は刑務所に慰問演奏。再び平和公園へ戻っての演奏は午後7時半過ぎから始まった。野外ステージである。観衆は暗闇のなかでワーワー言っている。演奏が始まってしばらくすると停電した。楽譜が読めない。司会者は何かやってくれという。仕方なく「原爆許すまじ」を何度となくリピートして演奏。観衆も次第にいっしょになって歌い出した。リピートするたびにその声が大きくなっていく。吹いている部員は楽譜が見えないが、観衆の歌にのせられて胸をジーンとさせながら吹きまくった。最後に「双頭の鷲の旗の下に」を演奏して舞台を下りる。演奏は30分ほどであったが、感動のステージであった。翌日長崎に向かった。長崎での詳細は記録がなく残念。

「お世辞でなく上手い」−山田耕筰氏−

この年に発足した天理教音楽研究会と同合唱団はその活動の緒にあたり、また教祖七十年祭に向けての記念事業として、山田耕筰氏に独唱と合唱を伴う交響詩の作曲を依頼。そのため、氏は半身不自由の身にもかかわらず、おぢばを幾度も訪れている。

天理スクールバンドには9月7日、10月19日の2度来訪。9月7日の日誌を見ると、3時20分から約1時間半にわたって天理高校講堂で演奏を聞いて頂いている。その後山田耕筰氏から話があり、玄関前で今度はパレード(ドリル)を披露している。当時の天理時報は次のように報じている。

48名の部員は矢野清氏のタクトのもと、音楽界の大先輩を前にしてフィンランディア、ベートーベンの想い出、ガラスの靴などを演奏、左手の不自由な氏は右手でテーブルを叩いて拍手を送った後「今日は涙が出るほど嬉しかった」と10分間にわたり次のように語った。

前から来たいと思ったところへ来、そして皆さんの演奏を聞いて非常に愉快であり、感慨深い。皆さんの年輩としてはむしろうま過ぎる演奏だ。私は日本の吹奏楽団では、上野音楽学校吹奏楽団と東京消防署、警視庁の音楽隊が最も水準の高いものと思っているが、その他の楽団よりは皆さんはお世辞でなくうまい。これは環境に恵まれているのと他の学校に得られない信念が幸いしているのではないか。音楽の使命は言葉なき言葉、つきつめていえば神の声を現すことである。従って音楽の勉強は誠の道を求めることにある。(9月18日号)

10月19日の来訪は歓迎演奏会として天理教館で行われた。このときは各楽器の最高音を聞いてもらい、その後「アンフィオン」「ガラスの靴」など8曲を披露。セレソローサやブギウギバンドなどのポピュラー曲やマーチ、七十年祭の歌なども聴いて頂いた。1時間半の演奏会であった。交響詩「おやさま」はこの頃には出来上がっていたのだろうか。それとも真っ最中の頃であったかもしれない。翌31年4月25日におぢばにおいて初演されている。とにかく演奏会を終えて心地好いブラスの響きを耳朶に残して満足してお帰りになった山田耕筰氏であった。秋雨にけむる夕暮れどきであった。それにしても矢野さんも上手くなったものだと胸中思っていたかもしれない。戦前に矢野清が山田耕筰氏から指揮の手ほどきを受けてから十数年がたっていた。

戦後天理教館が改装されてから、演奏会などでよく利用されるようになってきたが、まだこの頃は練習場としては固定されてなかった。学校から楽器を運んでの演奏会である。当時からこの教館には名物のおばちゃんがいた。「教館のおばちゃん」であり、「田中のおばちゃん」である田中まんである。「これ!バンド!」と幾度もお叱りを頂戴した部員も数多い。昨平成4年3月に出直すまで、バンドに終始心を掛けてくださり、演奏旅行のたびにお菓子の差し入れなど頂いたり、また、矢野清先生のよき話相手としても貴重な存在であった。教館に来るわれわれの先輩、先生に対して「これ、あんた」と言えるのはおばちゃんくらいであった。五十周年を前に出直されたのは、何とも口惜しいことである。

さて、話題は昭和30年のことである。この年のコンクールは11月23日。課題曲「アンフィオン」自由曲「ガラスの靴」であった。指揮は小松崎雄壽、昨年に続いてのことであった。5年連続しての関西優勝である。優勝後、真柱邸中庭で優勝報告演奏会が11月26日に開かれ、30日には天理高校講堂で「優勝発表演奏会」が開催された。また、教祖七十年祭が目睫の間に迫った12月5日には、おやさとやかた真東棟が竣工して、祝賀式で演奏。3ヵ所の会場でそれぞれ演奏している。

教祖七十年祭直会に毎日出演

教祖七十年祭が始まると、1月26日から2月18日までの期間中毎日第二食堂において夕方から開催された直会で夜遅くまで演奏。時間も遅くなるし、それに酒の席であった。現在ならOBのバンドが出演することだろうが、当時はそんなことをいっておれない。すべての行事はスクールバンドに負担がかかっていた。なかには「これはお酒ではない、御神酒だ」と言われて口にしたという部員もいたようだ。毎夜第二食堂での演奏を終えて、東寮(現在の第二食堂の南)の前を大声を張り上げて帰っていく男子部員はけっこう楽しんでしたようだが……。

2月5日には天理教館で記念演奏会。「運命」全楽章、「新世界」第2楽章他の演奏が行われた。春休みも終わりに近い3月31日に伊勢市へ演奏旅行。4月1日天理市庁舎竣工式典で演奏。月刊「吹奏楽研究」4月号によると、この後2日湯浅、3日和歌山、4日新宮にて演奏。5月5日には高知で演奏会となっている。5月5日は追手前高校講堂にて昼夜2回演奏会。長旅と雨中のパレードで疲労した部員は、夜の演奏会では眠そうに吹いていた。「スーザホンが揺れていてね…」と矢野晄道が覚えている。

初のテレビ出演は天王寺商業と合同で

昭和31年3月10日午後2時から朝日新聞社東京本社会議室で全日本吹奏楽コンクール開催に関する諸事項が協議され、12月9日戦後初の全国コンクールが開催されることが決定された。このことは前述の「吹奏楽研究」紙の4月1日号に載せられているので、昭和31年度早々には各団体も周知していたはずであり、わが天理スクールバンドも全国コンクールに向けてスタートしたのである。

しかし、天理スクールバンドはコンクール練習のみで事足れりとする他校のバンドとは違って、多くの使命を持っていた。まず例年のごとく4月の本部行事、それから5月には西脇市民体育祭と演奏会。6月は京都での演奏会。これは京都教区子供大会。30日には天王寺商業と合同でテレビ初出演。午後6時から30分まで「子供の時間〜僕らのブラスバンド」に出演。テレビには初めてとあっていろいろ大変だった。最初は合同で「花のほほえみ」。そして天王寺商業が「ペルシアの市場にて」を演奏。天理高校は「ガラスの靴」を演奏。スライドを使いながら物語の説明がされた後演奏。演奏とスライドが上手くミックスされながら進行していく。そして最後には「アンフィオン」を合同で演奏。大阪から全国に中継されたこのときの台本がまだ残っている。 8月には夏季演奏旅行。今年は山陽、山陰方面である。岡山をふりだしに米子、倉吉、鳥取、豊岡での演奏会であった。豊岡での演奏会はちょうどお盆の頃で、体育館で演奏会をやっていると、校庭では盆踊りをやっているといった具合。ところが夕立があり、ただでさえ満員で蒸風呂のようになっているところへ、雨をよけてなだれこんできた盆踊りの連中まで入れたものだから、超々満員になる始末。そんなこともあった。

バルトークの難曲に挑む −戦後初の全国大会−

秋には文化祭、運動会などがあって11月18日が全関西吹奏楽コンクール。会場は尼崎文化会館であった。課題曲は「花のほほえみ」、自由曲は「ルーマニア民族舞曲」。持ち時間は1団体10分以内と決められていた。今より短い。それに地方大会では編成人数の制限はなかったが、全国大会は指揮者を除いて30人以内と決められていた。まず関西大会から。高等学校の部4番目に出場である。全部で10団体。見事優勝を飾り、全国大会に駒を進めたのである。地区大会1位校のみに全国大会への出場権が与えられていた。

今年の自由曲は流行の作曲家バルトークのヴァイオリンとピアノのために書かれた小品を吹奏楽用に編曲したものである。当時NHKに勤務していた荒牧亀太郎が矢野清に「おもしろい曲があるんです」といって薦めたものだが、何分とも矢野清にしたら現代曲に馴染みも薄く、綺麗なハーモニーを追い求めてきただけにどうしてもとっつきにくかったようだ。矢野晄道が編曲をして演奏する。すると荒牧はその編曲に対して自分の要望を言う。そんなこんなで何度となく手を入れてようやく出来上がったのが全関西コンクール寸前だった。毎日の練習が終わると、矢野、荒牧、それに矢野晄道が電車で遅く帰って行く。布施まで、そのアレンジについてのそれぞれの意見を出しながら、車中大変だったようで、当時インスペクターであった森田忠興が思い出して語ってくれた。よく電車でいっしょしたそうである。3人が意見を出し合って帰ると、あとはその意見に添うように晄道が手を入れる。そして翌日の練習で実際に音を出してみる。どうもいけない、となるともう一度変えてみる。そんな繰り返しが幾度もあった。それにしても、当時バルトークを吹奏楽でやるなんてことは斬新を通り越して、驚異でさえあったにちがいない。知らない審査員もいたほどであった。変拍子は出てくる、和声的に言えばぶつかっているところが多いのも特徴的で当時は珍しかった。コンクールでの演奏が残されていないのは残念であるが、全日本後すぐの頃に演奏された同曲が録音されて残っているのを見つけたときの感激はいかばかりか。

全国大会は寒さ厳しい12月9日に大阪府立体育館で開催された。やたらに広い会場の一番奥にステージが設けられていた。とにかく寒かった。高等学校の部の出演は各地区代表の5校。出演順と自由曲を挙げると、北海道代表旭川商業高校「行進曲忠誠」、関東代表大宮工業高校「ガラスの靴」、東海代表東邦高校「アンフィオン」、全関西代表天理高校「ルーマニア民族舞曲」、西部代表片淵少年吹奏楽研究会「カルメン・シルバー」であった。

この自由曲を見ても、いかに天理に先取性があったがよく分かるであろう。他の部の自由曲も、ペルシアの市場とか軽騎兵、詩人と農夫などがみられ、吹奏楽オリジナルの佳品が少なかったことがわかる。ちなみに大宮工業高校の指導者は今をときめく秋山紀夫であった。

風邪流行して、出場危ぶまれる部員も

いよいよ全日本吹奏楽コンクールである。コンクール10日前の練習になってから、音楽室では二部の授業に支障をきたすということで、教館が練習場になった。数日前から部員内で風邪が大はやり。それにしても30人の精鋭である。一人でも欠けると練習にならない。しかし、身上では仕方ない。鍋野、横井、西らは演奏本番まで出場出来るか危ぶまれたと、優勝を記念して出された当時の「天理高校新聞特集号」に書かれている。そんな状態のうちに当日がやってきた。

その朝、大和地方は雪がちらついて寒い日であった。7時20分に学校に集合。前日まで風邪で休んでいた者らの顔も見えた。しかし、病み上がりの者が多いのでとくに医務室の先生が同行することになったのは今回が初めてである。7時40分バスで出発。青年会のトラックで楽器を運搬。そのトラックにはスピーカーから先日録音した勇壮なマーチ「花のほほえみ」がを聞こえてくる。9時15分船場大教会着。参拝の後練習。鍋野、西はブドウ糖とビタミンの注射を打ってもらってなんとか頑張っている。全員が「御供さん」をポリポリかじっていよいよ出発。/p>

午後1時30分バスに乗り込む。御堂筋を通って会場に到着。寒いからバスの中でチューニング。耳だけで合わせる。なかなか合わずに村田キャプテンもいらいらしている。バスを降りる時間になった。控室まで駆け足。楽器を冷やさないように抱え込んでいる。そしていよいよ本番。アナウンスの紹介が済んで、舞台の右手から指揮者矢野清が登場すると万雷の拍手が鳴り、すぐに静寂とうってかわる。緊張の一瞬である。1時46分最初の音が響きわたる。あっという間の10分間だった。正確には9分50秒。あと10秒しか残っていなかったと松吉部長が時間のことを心配していた。

いよいよ発表の瞬間である。どんなに心配だったか。結果は第1位、優勝である。表彰には村田キャプテン以下山本、後藤、鍋野の4部員が登壇して優勝旗、賞状、楯、記念品などを受け取った。表彰が終わると数回練習を繰り返してその場でNHKの放送用の録音がされた。これは当時ならではのことである。また、この日は生徒会が中心になって応援バスが2台繰り出している。生徒約 130名。これも現在はあまりないことだといえる。翌日は夕方から優勝パレード。本部参拝、真柱邸挨拶、分家宅、板倉宅、和久田宅、青年会本部、婦人会本部、山名詰所諸井宅などを回って挨拶を行い、本通りを行進して再び本部参拝後帰校して解散している。

矢野はコンクールで負けたときの悔しさ、とくに生徒が可愛そうでならないと「おれはコンクールなんかは嫌いや」と晩年語っていたという。しかし、このときばかりは矢野清はどんなに嬉しかったことだろう。戦前に開かれた第3回全日本吹奏楽コンクールでの屈辱から13年目にして果たした待望の全国初優勝であった。矢野清もこのときにはきっと涙していたであろう。二代真柱様の御揮毫されたあの「臥薪十年」の額に誓ってから17年目の冬のことであった。

《ルーマニア民族舞曲編曲について》

−矢野晄道− 

最初の編曲は父が行った。そして、一応演奏出来る状態になり、荒牧先輩に聴いて頂いたが、バルトークのハーモニーではなかった。そのことは直接父には言えず、私があいだに入り、まず荒牧先輩の要望を聞き、帰宅後父に伝えることとなった。しかし、それでは手直しが進まず日は迫ってくるし、私も困惑した。 ある日、父の許しを得て私がスコアを持って荒牧宅へ伺い、二人でスコアをバルトークの原譜(ピアノ譜)に忠実に書き換えることになった。私には何故出てくる音がバルトークらしくないかその原因は分かっていた。長年3和音(例ドミソ)、4和音(例ソシレファ)等の安定したハーモニーが身についていた父には、第3音を省略した「空虚5度(ミを抜いてド・ソ)」ではなくて、4度ハーモニー(ソ・ド)というふうに重厚感のない不安定なハーモニーには満足出来ず、最初の編曲の段階で、私に安定した和音になるように音を加えさせた。 当時、私は音楽芸術の雑誌等でバルトークの作品の解釈などを読み、少しは理解もし、その斬新なハーモニーに驚いたものだった。しかし、父の要求通りにすれば、バルトークの持ち味は得られず、荒牧先輩の思いに反することになり、私も随分苦悩したが、父もその後この響きに満足するようになった。結局原曲のハーモニーをつけるべくスコアを手直しして、ソロパートの変更などをしながら、コンクール前日までその作業は続き、本番に臨んだ次第である。コンクールの課題曲、自由曲もよく手直しさせられたが、この「ルーマニア民族舞曲」はとくに忘れえぬ思い出の作品である。