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第3章 吹奏楽部存亡の危機

第6節 戦時色深まる

戦局悪化でコンクール中断

開戦から1年半が過ぎ、次第に戦局は悪化の一途をたどった。前年までの大本営発表「大勝利」はいつしか消えて、「欲しがりません勝つまでは」などの標語が流行し、大勝利どころかガダルカナル島からの撤退、連合艦隊司令長官山本五十六の戦死、アッツ島玉砕などとどう見ても形勢不利の状況であった。国民の生活も苦しさを増してきた。学徒動員によって将来のある若い学生たちが兵役に就き、徴兵年齢が低下して、若い者がすべて兵隊にかりだされると、軍需施設を中心にして人手不足に陥り、婦人や学生が勤労奉仕をする始末になった。だいたい弱い者にしわよせがくるのが世のならいなのである。

昭和18年度は、そんな世の中の状況にあって、なんとか吹奏楽部は活動が続いている。この年新入部員には井出武の名前しか見当たらない。もっとたくさんの入部者があったのだろうが、結局卒業までいたのは彼一人であった。

4月は18日の教祖御誕生祭、20日の一宇会総会が、21日には各学校閲団分列式が本部で開催されて、それぞれの行事に参加している。6月26日には、「軍歌と吹奏楽の夕べ」が天理中学校の講堂で開催され、夏休みに入るといよいよ次は関西コンクールである。休みを返上して猛練習に励んだ。昨年全関西吹奏楽コンクールに優勝しながら、全日本コンクールでの優勝を飾れなかった悔しさが、部員の間で「今年こそ」という意気込みになって現れ、すでに発表された課題曲の練習に励んでいた。5年生北原俊幸(現山脇)キャプテンを中心にして、卒業したばかりの松永らも協力して熱の入った練習が続いた。それが、コンクール直前になって中止になった。部員たちの動揺は、口惜しさはどれほどであったろう。とくに最上級生、そして前年の雪辱をと期待していた卒業したての松永喜代人、誰にもまして昨年の全日本コンクールで悔しさを噛み締めた矢野清、それぞれが戦局の悪化のための仕方なさとはいえ、諦めきれないものがあったにちがいない。

9月に入ると学徒による体育競技会は一切禁止され、恒例だった運動会も中止になった。とにかく、現在の学校教育の現場では考えられないような事態になってきた。授業もだんだん規制されてきて、英語の授業がなくなったりしたのもこの頃である。

黒光りした「七度塗り大太鼓」登場

コンクール中断の鬱憤をはらすように9月26日「国民士気昂揚大音楽会」が中学校講堂を会場にして開かれた。「DAS GROSSE KONZERT DER AUFMUNTERUNG VON NATIONALER KAMPHLUST」とドイツ語で表示されたプログラムが残っている。指揮は矢野清。部員と共に楽朋会員15人の名前も記載されているが、全員が舞台にのって演奏した様子は見当たらない。この日の演奏会終了後、OB7名が矢野清を囲んで撮影した写真は、記録として残されている楽朋会員の集まった最初のものである。出席したOBは、荒牧亀太郎、村山滋、五十嵐真太郎、森川浩吉、松永喜代人、入田鶴彦、佐藤道晴。

この演奏会で初めて「七度塗りの大太鼓」が写真に登場してくる。あの黒光りした漆塗りの胴と紐締めの例のものである。現在は使っていないが、少なくとも数年前までは現役として活躍してきた大太鼓である。打楽器パートの者にとっては思い出多き楽器の一つであろう。ズシーンとした重みのある音と、左手で刻まれるシンバルの響きが微妙にミックスして独特の味わいある音を作っている。この大太鼓は同時に2台作られて、どこかの軍楽隊が手に入れたのと、もうひとつが天理に来たものだそうで、矢野清が苦労して手に入れた楽器の中でも、とくに思い入れの強かった物のひとつである。なかなかあの重厚な響きを出す大太鼓が他に見つからず、結局40年以上にわたって吹奏楽部の歴史を刻み続けた強者といえよう。

この前年頃から天理高等女学校では鼓笛隊が編成され、また、天理少年学校の高等科(尋常科6年の後の2年間)の子供たちに軍隊ラッパを持たせたラッパ鼓隊が作られて矢野清がそれぞれを指導している。

卒業後実務に就く5年生は昭和18年12月末をもって、学業を了えて就職。実質3ヵ月の繰り上げ卒業のようなものである。翌昭和19年2月11日には第12回紀元節奉祝大演奏会が大阪の朝日会館にて開催され、参加。これをもって昭和18年度の行事を終了している。4日後の2月15日が卒業式。この頃から勤労奉仕が続くようになり、3、4年生は3月中旬から土地改良の奉仕作業。そんな中で3月20日は東久邇宮台臨記念閲団分列式が神殿前広場で行われた。4年生以下20名たらずのバンドで演奏。

吹きずめの「各学校閲団分列式」

4月に入ると例年のごとく教祖御誕生祭での奉祝歌演奏、今田部長がベルを演奏している写真はこの時のものである。そしてこれも例年の各学校閲団分列式が4月20日、神殿前広場で挙行され、「陸軍観兵式『分列』行進曲」を演奏。この管内各学校閲団分列式は昭和12年4月から始まり、昭和20年4月まで続いている。12回行われたことになる。当時の模様を天理時報から抜き書きしてみよう。(昭和19年4月23日号)

  ……(前略)……ここに20日午前10時から中山正善管長を迎えていちれつ会管内諸学校の閲団分列式が本部中庭及び前庭において勇壮に繰り展げられた。  この日春陽麗かに照り映える中、武装凛々しい5000余の学生生徒ら粛然として式場に整列、中山正善管長は来賓とともに式場所定の位置につけば、村上理事の司会により国民儀礼、国歌奉唱につづいて中山管長の宣戦の詔書奉読あって開始、ついで職員代表上田嘉成二中校長、生徒代表川尻元治君の力強い宣誓あって閲団にうつる。各学校は直ちに定位につき校旗を先頭に整列完了。中山管長は本部役員いちれつ会理事、文教部員らを従えて皇国の運命を双肩に担う決意のほどを眉宇に漲らしきった威容を順次閲団。終えるや中山管長は来賓及び参列者とともに南礼拝場前所定の位置につき中学校吹奏隊の奏する豪快な行進曲につれ語学校、中学校、二中、教校が隊伍整然と勇壮の分列行進を開始力強く踏みしめる双脚に力満ち溢れ、錬武の意気は前線にとどかんばかり、つづいて女学校鼓笛隊の吹奏による女子部隊の行進、少年学校ラッパ鼓隊による少年学校、幼稚園と続く。整々たる中に勇壮の行進終われば再び中庭に集合。

分列行進の時の演奏は、ただ1曲のみ。しかも「分列行進曲」はかなり長時間休む間もなく延々と吹き続けられた。ドラムマーチも挟まずに曲だけを何回もリピートして演奏しなければならなかったのである。

親里ぢばの春を彩る恒例の光景であった。鑵子山周辺の名物の桜が散り、木々の新芽が芽吹き始めて風が心地よく肌に感じられるころ、遠く三輪山から連なる青垣の山々が霞にけむり、まさしく春麗かなおやさとであった。対照的に、神殿周辺の広場で繰り広げられる若者たちの一糸乱れぬ行進はきびきびとした緊張のなか、周囲の春に心を和ませる余裕もなく、景色の美しさに反して味気ない風景であった。それが戦時中の哀しさでもあったのである。

学徒動員による部員減少

この行事が4、5年生にとっては、天中音楽部として行われた ナ後のものになった。昭和19年7月15日から3年生以上の生徒は愛知時計電機株式会社に学徒動員されて名古屋に向かい、勤労奉仕を強いられることになったからである。年が明けて3月末に出動生徒が一時疎開帰校で帰ってくるまで勤労奉仕が続いた。

天中には1、2年生しか残っていない状況で、音楽部では2年生の井出一人が最上級生になってしまった。実質的活動が休止してしまったようなものである。矢野清もこの頃になるとあまり練習にも顔を出さないようになった。行事があるわけでもないので、練習といった練習をしていないのが当然と言えばそれまでだが、この頃からどこのバンドも人手不足が深刻になり、解散したりするバンドが出てきた。

そこで、矢野清は自ら指導しているバンドのメンバーを寄せ集めて、大阪で開かれる数少なくなった連盟関係の行事などに出ていた。○○楽団といった職場や一般、或いは中学校の名前を冠することができないので、矢野は自分の名前の「清」をとって、また清々しい響きの楽団という意味も込めて「清響吹奏楽団」と銘打って活動を続けていた。

しかし中学校の音楽部は壊滅寸前であった。「音楽なんてしている場合じゃない」。どうしようもない世の中の勢いに流されだすと、中学生という弱い立場の者が自分は音楽を好きだからもっとやりたいとか、そんなことを言っておれない状況であった。中学校の授業でさえまともに行われることが少なくなってきた時代に、クラブ活動にかかずらっていることの方が当時の状況としては異常なことであったのである。

昭和20年2月1日に朝日会館で開かれた「必勝歌発表大演奏会」へは2年生の井出しか出ていない。2月11日、勤労奉仕で名古屋へ行っていた高部龍生、矢野晄道ら数名が大阪での演奏会に参加しているが、これも清響楽団であった。


第7節 戦後の混乱期

軍事教練と勤労奉仕ばかり

昭和19年度の入学生の中に、後の音楽部復興に活躍したメンバーが多く見られる。島村國彦(現梶本)、小松崎雄壽、谷口眞、明山朋長、大谷好之、西村喜次らである。最初から入部していたのは、小松崎。谷口は入りたかったが、寮のラッパ手としての用務があるため入部はしばらく遅れた。島村はクラブ活動に入部出来ないクラスに入っていたため戦後になってからの入部である。しかし、彼は小学校時代から自分のラッパを持って練習をしており、ラッパの響きに憧れて、よく楽隊の後に付いて歩きまわったそうだ。

彼らが2年生になった頃、戦局は悪化の極みに達し、4月早々から5月末まで授業は行われず、柳本飛行場建設作業に駆り出されている。昭和20年の音楽部の行事は4月の誕生旬間行事のみ。18日の教祖御誕生祭、20日の管内各学校閲団分列式である。

軍事教練と勤労奉仕ばかりが続いて、学校の勉強どころでなく、食糧は極端になくなりだして運動場が畑になったり、寮や学校に配属された軍人がやたらに厳しかったり。生徒の頭の中には食べ物のことしか浮かばなかったなどという話は、今の飽食の時代に育った者には想像も出来ないことであろう。

寮ではこんなこともあった。ある朝の登校時のこと。分寮の石畳のところにクラス順に整列をしていると、教練の教官から突然靴を脱ぐように怒鳴られた。全員裸足になって登校。冬の寒い日であった。実は、前の方にいた生徒で、背負った背嚢のところに座蒲団を当てていたのが見つかったためだとわかった。ちょっとしたことで全員に罰が与えられたわけだ。連帯責任というやつである。当時E組で列の後ろの方にいた谷口は、最近この話を聞いて納得したように「なーんだ、当時は前の方で何があったか全然分からなかったが、そんなことだったのか」と50年近くを経た寮時代の一コマを思い出しながら語った。

当時の中学校は、おもに寮生の通う「一中」と自宅生なども通う「二中」に分かれており、本校舎が一中、鑵子山の校舎が二中。クラブ活動は合同でやっていた。また、二中の校舎の西半分は学校工場になっており、愛知時計の工員が80名ほどいた。

5月8日、天理二中の西校舎から出火して1棟を焼失する。厳格で知られる二中校長上田嘉成はモクモク上がる黒煙を眺めながら「おれの先祖にもこんなことをやったものはない」と実に悄然となり、進退伺を出したほどであった。原因は、工員たちだけが出入りしていた物置でのタバコの火の不始末だとわかった。暗雲たちこめる世の中が次第に奈落に滑り落ちていくころの出来事として記憶している当時の生徒も多いだろう。

8月15日終戦。翌16日に太平洋戦争終結に関する「勅語奉読式」。生徒たちはどんな気持ちでこの式に臨んだのか。戦争に敗れた無念さ、そんなはずはないと信じきれない者、あるいはこれでもう戦わなくてもと安堵の胸をなでおろす者。空襲の恐怖、軍事教練の厳しさ、灯火管制、すべての戦時体制が一日にして総崩れになった。国敗れて人心乱れ、将来に対する不安感がつのり、混乱の時期であった。

指導者不在−しかし自由に吹ける喜び−

音楽部はどうだったのだろう。普通に考えると、終戦によってすぐにでもクラブは再開することが出来るものと簡単に考えそうなものだが、そんな簡単でもなかったし、学校、寮などがごろっと変革されて毎日の生活にも戸惑いが多く、何にも増して食糧難は終戦したからといってまったく解決されたわけでもなく、食べていくことに汲々としていた混乱期であった。

それでもぼつぼつと練習が再開され、楽器を持って吹く喜びを、そして何よりも軍部からの規制から開放されて、いわゆる敵国の曲も吹けるようになったのは部員にとっては楽しみだったに違いない。

明くる昭和21年は教祖60年祭である。1月26日には本部中庭において、祭典終了後「教祖60年祭の歌」のお供え演奏が行われた。部員は20名もいなかったのではなかろうか。指揮は誰だったのか。梶本の記憶によれば引原好三郎だったとのこと。矢野清は戦中から戦後にかけて音楽部の指導者としての活動を休止していたことがある。記録によると昭和21年11月から24年6月までとなっているので、この60年祭の時には記録上は残っていることになっているが、実際はどうも違っているようである。確認のしようがない。

その後2月17日に「管内諸学校合同演芸会」が中学校講堂で開催予定と「天理時報の日報」に掲載されている。予定曲目はインドの女王などで、指揮は矢野清となっているが、当時在籍していた小松崎は、「どうもこの時期にそんな曲は出来なかったし、したような記憶もない。それに矢野先生はその頃はもう来てなかったように思う」と語っている。梶本も「戦後間なしの頃に矢野先生の棒で吹いた記憶はないなあ」と述べて、小松崎と同様の意見である。

40周年記念誌の昭和21年のページに掲載されている唯一の写真には《昭和21年4月教内学園音楽会・於天中講堂》となっているが、天理時報などを調べてみても、4月にそのような行事は行われていない。10月26日に開催された「綜合音楽会」がこの写真のことなのか、それとも、前述の2月17日のことなのか、梶本、小松崎、谷口の意見もまとまらない。ただ、この写真は天中講堂でなく、女学校講堂であったとの意見は一致した。この教内学園音楽会として載っている写真は、10月ではなかったかと想像されるが、それは次項で説明するとしよう。

はっきりしている行事としては、4月18日の教祖御誕生祭、20日婦人会総会、21日青年会総会に出たことは確実である。運動会もこの年はあったのか、なかったのか。とにかくバンドは出ていない。

吹奏楽部壊滅寸前−楽器盗難にあう−

そんな頃、音楽部にとって大きな事件が起こった。主だった楽器が盗難にあって大量に紛失してしまったのである。 授業が終わって楽器を置いてある部屋に入ってみると、今まで大事に使ってきた楽器がなくなっていたのである。部員は驚き、悲嘆にくれ、これからどうしていったらいいのかしばし茫然と楽器庫に立ちすくんでしまった。せちがらい世の中の風とはいっても、こんなに大事にしていた物まで取らなくてもとみんなが思った。食うに困って物を盗み、それを売ってというようなことが、戦後間もない混乱の時期には多くあったようだが、まさか自分たちの楽器がそんな目にあうとは誰一人想像出来なかった。残っている楽器は、金にならないようなものか、それとも運び出すには厄介な大きな楽器だけであった。フルート・ピッコロ類は一つも残っていなかった。

この事件が起こったのはいつのことか、これもはっきり記憶している部員がいない。そこで写真を頼りに類推してみた。盗難にあった楽器のなかには、当時も珍しかったロータリーのトランペットが含まれており、教内学園音楽会で井出が吹いているトランペットをよく見ると明らかにロータリーであることが分かる。4月の行事をした頃は、楽器が無くてとか、この誕生祭はどうなることか、とかの思い出話が出ていない。ということは、この時点(4月)はまだ盗難以前であるということである。小松崎が語っている「この音楽会の後に盗難事件があったように思う」という言葉によると、教内学園音楽会は、2月17日であることはまずない。10月26日説が有力になってくる。そうするとだいたい話が合ってくるような気がする。昭和21年秋にこの事件が起きた。現時点での釈明はこのようにしておこうと思う。後日詳細が判明して、日時が確定されることを期待したいものだ。

大切なことは、あまり詳細にこだわりすぎて、大きな流れを見逃してしまうことにある。このときの部員のショックの大きさと、これからしばらく続く壊滅状態は、天理高校吹奏楽部の長い歴史のなかでもとくに記憶されねばならないし、そこからの見事な立直りがあったればこそ現在まで綿々と続いていることをよく認識しなければならない。

楽器がないと困るのは部員である。活動にも支障をきたすが、新入部員が入ってこれないのだ。入ってきても楽器がないからである。昭和22年の誕生祭の行事、青年会総会、婦人会総会はどうしてたのだろうか。わずかな部員で細々と続けられたことは言うまでもない。しかも、矢野清はこの頃もまだ復帰していない。戦前戦中を通してひのきしんで吹奏楽の指導をし、またしばらくしてからもわずかな「お礼」で頑張ってきた彼ではあるが、やはり一家の主として生計をたてていかねばならず、敗戦直後のこの時期は、やむにやまれず大阪で軽音楽のバンドに加わって仕事をしていたのである。
それはともかくとして、昭和22年の4月の行事を無事了えると、あとはとくに行事があったわけでもなく、楽器はない、楽譜があってもメンバーがそろっていない。そんなこんなで演奏会を開くこともままならない状況であったろうと推測できる。

パレード出来ずトラックの上で演奏

そんな秋のある日、どういう経緯でなってきたのか分からないが、名張での演奏会がもたれることになった。30周年記念誌、40周年記念誌には「名張市制記念」となっているが、この時期はまだ市制がひかれておらず、名張が市になるのはこれよりあと昭和29年3月のことである。これは明らかに記憶違いであろう。

しかし、名張まで出向いての演奏は実際に行われた。電車に乗って名張まで行き、市内(正確にいえば町内)をトラックに乗って演奏したことが、当時の部員たちに鮮明に記憶されている。トラックの荷台の上にわずかな部員が乗って演奏するのは、行進しながら吹くより難しかったと述懐しているのは、当時からいろいろと段取りを決めたりマネージャー的な役割を果たしていた谷口眞である。車が動きながらであるから当然であるが、舗装してある道などなかった時代で、しかもでこぼこ道ときている。時々辻々で止まってはホッと一息ついて演奏をした。

何故そんなにしてまでトラックの上で演奏しなければならなかったのか。小松崎雄壽は「ようするに行進練習などしたこともなくて、出来なかったし、部員も少なかったからね」と語っている。梶本國彦も下駄履きで出かけたなど、とても行進できる様子ではなかった。

それでも部員たちにとっては初めての出張演奏である。出された御飯をおひつごとまるまる食べてしまった部員がいたなど、思い出深き演奏となった。白い御飯が腹一杯食べられるということは、当時のおやさとの学生には考えられないことであった。それを満たしてくれただけでも、貴重な出張演奏だった。

22年10月20日には秋季運動会が開かれたが、まだバンドは登場していない。秋の大祭の日に開かれた「管内学校招待音楽会」にも出ていない。部員は増えずに細々と辛うじて潰れずに持ちこたえているに過ぎず、実際のところ部員は10名もいただろうか。30名を超えて充実していた時期の先輩たちからしたら、なんと歯痒かったことだろう。また、以前を知っている当時の部員の心にも、何とかせねばの気持ちはあっても、やはり楽器がないのがこたえた。食糧にも事欠く時代に高価な楽器など買えるはずもないのである。悪循環が繰り返して時が流れていった。

翌23年は徐々にではあるが、行事が増えていったものの、相変わらず部員は少ない。この年4月から新制高校が発足し、旧制の中学校の4年生は新制高校1年生に、また、新制高校に編入せず、そのまま旧制で卒業する者もいるなど学制改革によってややこしい時代であった。

この年は久し振りに運動会に出ている。4月の行事をおえて5月に「奈良県学徒自治連盟総会」に出演。少しずつ充実の方向が見えてきだした頃である。

そんな時に運動会が開かれた。10月29日の秋冷の頃であった。充実とはいっても20人もいるかいないかといった程度のことである。写真を見ると、服装はバラバラ。靴あり、下駄ありである。何となく今のイメージから考えつかないような雰囲気で、指導者もいないまま、本当に音楽の好きな者たちが集まってるという感じが強くする。

この勢いが明くる昭和24年1月26日に開かれた「春季大祭20曲演奏会」として芽を出すことになるわけである。この演奏会は最初からタイトルを前記のように決めていたわけではなく、後日そういうふうに呼ぶようになったのであるが、プログラムを作ることもなく、壇の下に黒板を置いて、そこに曲目を列記したのである。その曲数が20曲あったわけだ。前日、関西吹奏楽連盟の戦後第1回の演奏会が大阪において行われているが、もちろん天理高校の音楽部は出ていない