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第2章 天理中学校音楽部「吹奏楽班」誕生

第3節 誕生のころ

吹奏楽部の前身、ハーモニカバンド

天理中学校に音楽部が出来たのはいつのことであったろうか。そのなかでハーモニカバンドがどのように活躍していたのか、今ははっきりしない。ただ、音楽部に吹奏楽班が出来たのと入れ代わるように自然消滅に近い形でなくなっていったようである。では、いつ頃からハーモニカバンドがあったのだろうか。

昭和11年度も終わりに近づいた頃のハーモニカバンドの写真には、約20名の部員が生徒の指揮で演奏しているものがある。「卒業生送別会」のもので、すでに吹奏楽班の活動が始まり出しており、これが最後の演奏会のものかもしれない。吹奏楽班がわずか数名で始まったことを考えれば、この人数の多さから察して、なかなかの活動がなされていたものと推測される。昭和8年度天理中学校卒業の森川佑二郎(後の岡大教会西北分教会長で、昭和16年度卒業森川浩吉の兄)は、このハーモニカバンドに入って音楽活動をしており、少なくとも昭和初期から活動していた模様である。約10年間前後のものであったのだろうか。 音楽部がそのままハーモニカバンドだったようでもなく、他には絃楽部もあり、ヴァイオリンなどを演奏する者もいたようだ。ただ、もっぱら室内の演奏にしか活動出来ないようなものであったし、時代の要請とともに衰退していったのも頷ける。他にも合唱団があったことも充分考えられるが、今となってははっきりしないところが多いので、確定できないのは甚だ残念というほかはない。

天中にブラスの音響く−第1回演奏会−

昭和11年4月に天理中学校に入学した古川美智雄、森川晴三郎、木内政之助らは当時中学校にあった音楽部のハーモニカバンドにあきたらず、吹奏楽部設立に奔走し、音楽部長であった千々和憲明(昭和10年4月〜13年5月在職)に早速楽器の購入を依頼、この年の秋には数名のバンドでラグビー部の応援をしたという。そうすると早々の楽器購入が実現したものと思われるが、そのために古川らがどれほど熱心に吹奏楽部設立を説いたか、楽器購入にかかる費用が少なくないだけに、大変であったことは想像にかたくない。

しかも、世の中は軍事色がいっそう濃くなり、中学校生徒でさえもその影響で、「音楽なんて女々しい者のすることで、そんな軟弱な…」と口にするようになり、学友たちにはもちろんのこと、一部の教師からも偏見に満ちた目で見られる嫌な時代になってきた。文字通りの敝衣破帽、バンカラな気風がもてはやされた硬派の時代であった。

しかし、一方では行進するときに演奏される勇ましいマーチがもてはやされ、吹奏楽の一面を理解してくれる者もなかったわけではない。

話は前後するが、森川が年祭のときにおぢばに帰って、本部前で演奏する船場楽団の雄姿に感動し、矢野清の吹く指笛(曲は東京ラプソディーだったと森川は語っている)に感銘して、その年に入学して吹奏楽班設立に加わる。

この頃の若者がどれほど音楽を求めていたか、とくに生の音楽、ラッパの響き、太鼓の音、大気を揺すぶるようなと言えば大袈裟かもしれないが、空気の振動を通して直接耳に響く生の音を、そうさいさい体験することはなかったであろう。あまり質のよくない音でラジオ(もちろんAM放送)から流れてくる音楽を聴く機会さえも、当時の若者には少なかったに違いない。まして一般家庭にはレコードなど夢のまた夢。そんなとき、高らかに鳴るトランペット、見事に奏でる木管楽器、実に軽やかにリズムを刻む太鼓を目の前で聴いて感動を覚えた少年は数多いだろう。バンドの演奏を聞きつけて家を飛び出し、人垣の輪に混じって聴くだけでは満足出来ず、行進の後を延々とついて歩いたときもあった。

そのうちに聴いているだけでは満足出来ず、触れてみたいと思い、さらに音を出してみたいと、次から次へと楽器に対する欲望が湧き出してきて、知らぬまに音楽のとりこになってしまう。そんな少年たちが吹奏楽班設立に奔走したことは、当時の状況から考えて当然と言えば当然かもしれない。

昭和11年秋、ようやく「音楽部吹奏楽班」が創立されるのである。購入楽器はコルネット、アルトホルン、バルブトロンボーン、アルバート式クラリネット、バリトン、小太鼓であった。

練習は音楽室、楽譜はどのようにしたのであろう。ともかく部員も数名と少なく、もちろん専門に教えてくれる先生もおらずで、古川美智雄が中心となって、手探りの状態であった。そしてなんと驚嘆すべきことは、翌昭和12年4月、天理中学校階段教室で初めての演奏会が開催されたことである。わずか1年足らずの間に演奏会を開催するまでになったことに対して、驚きと同時に、部員たちの熱い情熱、努力に感服しないわけにはいかない。曲数は少なく、わずか数曲を演奏しただけで、後半はレコードコンサートの形式であったが、まさに天理中学生によって初めてブラスの音が響きわたり、半世紀に及ぶ吹奏楽部栄光の歴史の第一歩がここに記されたのである。

指揮は千々和憲明、クラリネット古川美智雄、トロンボーン木内政之助、小バス森川晴三郎、アルト柴田信雄、他にクラリネット1名。コルネット1名。わずかに6名のスタートであった。

実行の人、初代キャプテン古川美智雄

吹奏楽班設立に大いなる貢献をし、その後指導的役割を果たして部員の世話をしたり、自分のパートにとどまらず全体を把握して部員をまとめ、統率していった人物、それが古川美智雄である。

音楽部の発展を願って青春のエネルギーを燃焼させ、自身は名トランペット奏者として、また、クラリネットも立派にやってのけるという実力ナンバーワンの存在であった。また器用な人で、楽器の修理から手入れ、タンポやバネの調子まで一切を引き受けて、常に最高の状態で演奏できるように気を配り、クラリネットのリードもトクサでゴシゴシと磨いてよく鳴るようにしたり、とにかく一部始終音楽部のために徹しきった実行の人であった。

彼は大正10年3月、福岡県田川郡後藤寺町に生まれ、地元の福岡県女子師範学校附属小学校尋常科を卒業後、昭和10年に西新尋常高等小学校高等科を出て、すぐ上級の鶴城宣教所の青年をすることになるのであるが、向学心止みがたく、おやさとの中学校に進学を希望して、昭和11年4月天理中学校に入学した。高等小学校2年間は皆出席で通し、趣味は野球であったという。小学時代の古川には音楽に情熱を傾けた形跡はない。入学後すぐ音楽部に入ってみたものの、ハーモニカばかり吹いており、何か物足りなさを感じて、同級の木内らを誘って吹奏楽をしたいと、当時の部長千々和先生に申し込んだ。

小学生時代には音楽に趣味があったのかなかったのか、古川が何故音楽部に入ったのか。ここに天の配材の機微を感じないわけにはいかない。彼が音楽部に入部することによって、のちのちの吹奏楽部が出来たといっても過言ではないからである。

さて、吹奏楽をするにも当時の学校には楽器がなかった。吹奏楽器が世の中に普及していなかったし、なんといってもバンドの楽器は、ハーモニカのように手軽に買えるものと違って、かなり高価である。音楽部の予算もそんなに多くはなかったであろうし、しかも、千々和は武蔵野出身の声楽畑の人でもある。音楽には違いなかったが、畑違いの吹奏楽を当然自分がある程度指導していかなければならないことは、想像出来たはずである。よし、と言ったかどうかわからないが、この先生も今から考えれば偉い先生である。

自分の専門分野以外のことで、しかも多額の予算を取るのには、教頭なり校長なりに面倒な説明やら、頭を下げたりもしなくてはならない。たいていの芸術家はこういった事務レベルのことは苦手な人が多い。わざわざ面倒で、専門外で、しかも世の中は「音楽なんて女々しい」といった具合のご時世である。「だめだ」の一言で片付けようと思えば出来たはずであった。

しかし、彼はそれをしなかったばかりか、古川らの若い熱気に後押しされて吹奏楽班を作ったのである。学生たちにすれば、何としてもの意気込みがあったようである。 このようにして何もないところからでも、まず一歩が踏み出され、その後小さな川が幾年を経ずして日本一の大河になっていくことを古川は想像したであろうか。卒業後は日鉄に勤めて、日鉄バンドで頑張っていたが、その後陸軍に入隊。満州の地にあって戦車隊長として軍務についても、母校音楽部のことが気掛かりであったにちがいない。古川は昭和20年沖縄決戦にて戦車隊長として戦死している。戦争とはいえ、惜しい人物の損失であった。

矢野清、指導者に就任

昭和13年になって戦時色が濃くなるにつれて皮肉にも吹奏楽団の活躍する場が増えてくるようになった。2月6日には「第1次天理教愛国少年団壮行式」が行われている。北支派遣軍からの求めに応じて、教校別科、中学校、中等学校の学生生徒53名は愛国少年団の名のもとに北支に向けて出発。その壮行式で天理中学音楽部吹奏楽班は、本部南礼拝場前広場から本通りを天理駅まで先導。駅頭で学友らを見送り、「愛国行進曲」を演奏。

この少年団派遣は以後も続き、3月11日に第2次、4月13日に第3次、6月7日に第4次が派遣されている。いずれも中学校音楽部が壮行式に活躍している。

2月11日は紀元節奉拝式が本部中庭で行われ、「中学校のブラスバンドにつれて国歌合唱、つづいて……」と天理時報に記録されている。同じ日、大阪朝日会館を会場にして「紀元節奉祝大音楽会」が開催され、矢野清は船場楽団、泉尾第二青年団、金光教青年会の合同バンドを指揮している。このときにはまだ天理中学校に指導者としての正式な立場がなかったことを示している。

4月に入ると教祖誕生旬間の行事が続いて、18日の御誕生祭での「奉祝歌」演奏。20日は午前中「信仰報国大講演会」が東屋敷大テント内で開かれ、開会式に出演。午後は綜合学校敷地内で行われた「総出ひのきしん」に出演。「青年会歌」の伴奏、それに意気を盛り上げるために何曲か演奏している。

ブラスバンドはこの神の子供らの心に揺籃の子守唄を奏でるごとく、おやざとの大地に響いていき、地の果て海の果てに歓喜を送る……。(天理時報)

4月27日は教祖御誕生旬間の最後を飾る「各学校閲団分列式」が午前9時から神殿南礼拝場前で挙行され、船場楽団に混じった中学校音楽部員たちは「君が代」の伴奏をはじめ、分列行進の演奏をしている。この旬間中の行事は船場楽団との合同出演。このあと最初の出張演奏が行われて、三輪まで出向いている。これは出征兵士の壮行会だったと当時の部員が語っているが日時等詳細は不明。

6月7日の第4次愛国少年団壮行式に続いて、翌8日「天理教建国奉仕隊結成式」が橿原神宮運動場で開かれ、船場楽団、畝傍青年ブラスバンドが分列行進に際して演奏しているが、天理中学生も船場楽団に加わって演奏。8月7日は同様に船場楽団として「八紘舎竣工奉告祭」に参加。これも橿原神宮で行われたものである。

この春頃から船場吹奏楽団員であり、指導もしていた矢野清が天理中学校の吹奏楽班を指導するようになる。梅谷忠雄大教会長から「真柱様のご要望だから天理中学校の吹奏楽部を指導するように」との御命を頂いて正式に天理中学校の指導者として着任するのは、6月12日である。

矢野は、中学校の単なるクラブ活動に終始するのではなく、本部の御用をつとめさせて頂くことこそもっとも大事なことであり、その精神をひとときも忘れずに以後誠心誠意つとめるのである。そして、「いつしかきっと全国一と言われる吹奏楽団に仕上げよう。それが真柱様の親心にお応えする道である」と決意するのである。

部員も徐々に増えて十数名の編成になっていた。この年荒牧亀太郎入部(4年生)。ユーフォニアム、E♭テューバ、トロンボーン購入。教内の行事にも多く参加するようになって次第に校内での認識も新たにされるようになってきた。

10月10日、橿原神宮にヒットラー・ユーゲントの一行48名が到着。歓迎の式典で「愛国行進曲」を奏で、一行を先導して入場した。秋季大祭を終えた翌日10月27日には船場吹奏楽団と合同で天理中学校講堂にて秋季演奏会が催された。約20名の演奏。10月29日には運動会で演奏。

憧れだったスーザフォン−第1回ラジオ放送−

この年の暮れには、吹奏楽班と天理中等学校(夜間)の雅楽部が合同でJOBKから第1回のラジオ放送が行われた。中学校のクラブ活動が当時ラジオ放送に出るなど、当時としては大変なことであったにちがいない。この放送以前に、船場楽団は単独でJOBKに出演しているので、そのツテが矢野にはあったのかもしれない。吹奏楽班員は十数名。写真にはスーザフォンが2本写っている。これは船場楽団の楽器で、借用しての出演だった。ところで、スーザフォンという楽器は当時としては大変貴重な、また、どこのバンドも憧れの楽器であったようだ。

船場楽団にスーザフォンをと矢野も強く希望していたらしいが、やはり高価な楽器のことだから、大教会長にもなかなか言い出しにくかったが、ある日、どこで見つけてきたのか、矢野はスーザフォンをかついで梅谷忠雄の前に現れ、「大教会長さん、これなかなかいい楽器でしょう……」と楽器を下ろして磨いてみたり、また、担いで歩いてみたりして梅谷の前を行ったり来たり。しかし、「買ってください」とはなかなか自分の口からは言わなかった。梅谷も大阪の映画館で見たニュースで、どこかのバンドが持っているスーザフォンの勇ましい姿が強く印象に残っていたらしい。しかし、やはり高価な楽器であることにかわりはない。その後も何回かスーザフォンを持って矢野は現れ、梅谷もとうとう根負けしたようなことで、スーザフォンを購入するはめになったという。これは梅谷が後日、矢野を思い出しては、その執念というか、熱気というか、これだと思ったら徹底してやる気構えに感心し、さらに「一回も買ってくれとは言わなんだが、買おうと決めたときの矢野のうれしそうな顔は今でも忘れられない」と語った。

後日談になるが、この楽器が後に天理中学校に譲渡され、そのうちの1本は昭和20年3月、ソハマ楽器に預けていたところ大阪大空襲にあい焼失してしまった。

「森の鍛冶屋」はひちりきを使って

話がだいぶ横道にそれてしまったので、もとにもどそう。翌14年4月26日には春季大音楽会が天理中学校講堂で開催されている。プログラムが残されているので、ここに紹介をして、当時の雰囲気を味わってみることにしたい。

第1部には、天理中等学校(夜間)の雅楽部の演奏。第2部で「天理中学校吹奏楽部」という名前が見られる。この年から「班」から「部」へとなったのだろうか。この後にも「班」という表現が出てくるので、どうもはっきりしない。

演奏は4月の誕生祭らしく「教祖御誕生奉祝歌」から始まり、当時の時代の色を象徴するように「殉国勇士を弔う歌、皇軍将士に感謝の歌、行進曲スペアミント、序曲青年の精神、行進曲双頭の鷲の旗の下に、ハンガリー序曲アチラ」と続いている。指揮は木内政之助。第3部は天理中学校絃楽部「ロングロングアゴー、ローレライ」など4曲演奏。当時も絃楽部があったが、事情で長続きしなかったようだ。休憩のあとは再度絃楽部が登場して「宵待草、城ヶ島夜曲」など5曲。第5部は名曲鑑賞として8曲。これはレコード鑑賞。第6部がアコーディオンとギターの演奏で2曲。

最後に矢野清指揮、天理中学校吹奏楽部が再登場する。1曲目は「行進曲国軍」続いて「軍隊行進曲、行進曲勝利へ、スペイン舞曲、行進曲少年騎手、イル・トラヴァトーレ、愛国行進曲」。全部で7曲からなるプログラムである。時代を反映してか、勇ましいタイトルの曲ばかりが目につく。

秋季大音楽会は10月26日。3日後の10月29日は天理中学校運動会。運動場で演奏する吹奏楽部のメンバーをみると、指揮者を除いて全部で13名。指揮は矢野清。

  • フルートピッコロ1(荒牧亀太郎)
  • E♭クラリネット1(山下光平)
  • B♭クラリネット2(西谷義次、森川浩吉)
  • コルネット2(古川美智雄、工藤栄一)※古川はクラリネットも吹いている
  • トロンボーン1(迫 敏一)
  • アルト1(入田鶴彦)
  • バリトン2(五十嵐真太郎、広池敏行)
  • バス1(森川晴三郎)
  • 大太鼓1(柴田信雄)
  • 小太鼓1(村山滋)

それに雅楽部員(氏名不詳)が一人譜面台を前にして座っている。ひょっとしたら、「森の鍛冶屋」の鳥の鳴き声の場面でひちりきの舌を水笛の代わりに使用するため、とくに駆り出されたのかもしれない。

11月19日は「大日本吹奏楽団連盟結成記念愛国吹奏楽大演奏会」(やたら長ったらしいが、当時の雰囲気はよく伝わってくるような気がする)が中之島の中央公会堂で行われ、天理中学校音楽部は合同に混じって「我等の軍隊」「銃後の花」を演奏した。

マイナスバンドと言われて

昭和14年も押し迫った12月29日に第2回目のラジオ放送が実現した。時間は午後5時30分からの放送。「中学生の時間」というタイトルだったと当時の部員は記憶している。今回は、吹奏楽班単独での出演である。班員は16名、指揮は矢野清であった。

現在のラジオ放送であれば、まず録音をするのが常識になっており、演奏を失敗すれば何回となくやり直しがきくが、当時はテープレコーダーがまだない時代、まさに生放送であり、スタジオ内は異常なまでの緊張につつまれていた。雑音防止のために靴の上から袋のようなものを履かされ、余計な音を一切出さないように気を配りながらの演奏は、それこそ極度の緊張にスタジオ内はピーンと張りつめた雰囲気だった。

しかも、小編成なので、各自の音がそのままソロのようなものである。ミスは許されないし、いい音を出さなければならないのでますます緊張する。50人編成でやるような曲をやるわけであるから、一人当たりの負担は大きい。録音をする現在でもかなりの緊張をするわけだから、生放送となるとなおさらであろう。指揮棒が振り下ろされて演奏が始まった。

曲目は「イル・トラヴァトーレ」。前回は雅楽部の協力を得ての放送であったが、今回は単独の放送であった。冬休みを返上して特訓した練習の成果を電波にのせて、天理中学校吹奏楽の演奏が響きわたったのである。

この頃、中学生の間では「マイナスバンド」、「プラスマイナスゼロバンド」などと陰口をささやかれたときでもあった。つまり、「ブラス=プラス」にまでもならないというわけであろう。第1回の放送に続いてこの第2回目の放送がされると、学生間での評価も次第に上がり、「マイナスバンド」は消滅していった。

JOBKはNHK大阪放送局のことで、東京のJOAK、名古屋のJOCKなどと同様に関西地方のラジオ放送の拠点であった。もちろん当時は民間放送局はまだ開局していない。馬場町の角にあったので「BK」などともじって言われていた(現在も同所にあるが、BKといっても若い人には通じないようである)。

落とした楽器で「ハンガリア田園幻想曲」 −荒牧亀太郎−

天理中学校吹奏楽部最初の卒業生の一人で、吹奏楽班が出来て3年目とはいえ、まだまだ小人数だった昭和13年に入部。当時4年生であり、最上級生であった。矢野が就任した年でもある。

彼のフルート演奏は誰に習ったというわけでもなく、しかし、船場楽団から教えに来てくれた田口元造に、すでにかなりのことが吹けるということで「お前には教えることないね」と言われたそうである。とにかくいっそく飛びに上達したその努力が報われ、かくれた才能が見事に開花した結果が第3回ラジオ放送で演奏された「ハンガリア田園幻想曲」となって実を結ぶのである。

昭和16年3月8日午後5時30分から6時までの放送であった。この演奏によってNHKディレクターの目にとまり、「あいつ便利坊やにいいや」といって放送局に引き込まれることになるわけであるが、これは卒業して1年後の話。このときの放送は前述の「ハンガリア田園幻想曲」と序曲「黄金の冠」の2曲。

「ハンガリア田園幻想曲」の放送にはエピソードがある。放送直前に後輩の田之上陽三郎は荒牧の楽器を落としてしまったのである。荒牧は独奏用に譜面台を高くして、その上に楽器を置いて席を外していたのだろうか。ちょっとしたはずみで田之上が譜面台を引っ掛けて楽器を落としてしまい、フルートが曲がってしまったのだ。これを見ていた矢野や、森川浩吉は驚き、早速ドラムのスティックを差し込んで何とか応急の手当てをしたという。今ならさしずめ代わりの楽器がすぐ出てくるのであろうが、このときにはそんなフルートの余分があるはずもなく、その楽器を応急修理しなくてはならない。放送時間は迫ってくる。そこが生放送の難しいところでもあるわけで、必死に修理をして、荒牧はその楽器で見事な演奏を披露したのだ。もしや演奏できないのではと全員が肝を冷やした。しかし、荒牧は何もなかったかのように流れるようなメロディーを演奏し続けたのである。伴奏をした部員は感動し、今だにこの演奏の素晴らしさを語る当時の部員は多い。 前述の田之上は60歳を過ぎた今、「ハンガリア」に挑戦していると懐かしげに便りを寄せている。また、高部龍生も荒牧に対する憧れから、卒業して後々プロで活躍する頃もフルートは手放せなかったと語っている。

さて、話題は荒牧であるが、彼は、入部が遅かったが、最上級生である。何故キャプテンとしてつとめなかったのか、長年不思議に思っていた。また、常人以上の演奏技術を持っていることに加えて、その音楽センスと素晴らしい聴感からして、当然最上級生として部員を束ねていく主将であったものとばかり思っていた。

「 そうですね、戦車隊で亡くなりましたけど、古川というのが僕より1年下で、これがトランペットをやっていてとても素敵で、統率力があってね。僕は最上級生でしたけれども、古川にキャプテンをやらせたんです。だから、山下とか、迫とか僕等同級生3人おるんですけれども、1級下の古川をキャプテンにしようと。だから彼を助けて一生懸命やったのが、廣池と森川ですよ。授業が終わるとみんなよく集まったですよ。あれは不思議なことだったなあ。他にすることなかったからだろうね。日曜日か何か集まれないときには、僕は、寮の2階の屋根へ登って、鬼瓦の所にまたがって吹いていた」これは座談会での荒牧の言葉である。なるほど、と頷けると同時に、古川が卓越した統率力の持ち主だったこと、また、これを見事に引き出し、常に温かく見守りサポートしていったのが荒牧ではなかったろうかと、この二人のコンビネーションに感心する。

昭和15年4月と言えば荒牧が卒業して間もない頃、古川が最上級生になって4月に写した1枚の写真がある。学生服姿でアルトサックスをかまえている。裏には

昭和15年4月26日 浪華商業学校の放送の日の朝、道友軒にて。「少年」「二千六百年」行進曲を放送す。23日よりサクソホンを練習した。25日は運動会で練習出来ず、荒牧さんは来られなかった、後輩の為を思われて。

こんな文が書き記されてある。浪華商業学校の中に混じっての演奏をしたのであろう。また、25日の運動会の後のこと、荒牧が練習に出てくれば、後輩は当然出ていかねばならない。疲れていることだろうからと後輩を思って、荒牧はその日の練習は休みにしたのだろう。古川はこの先輩の心遣いを申し訳なく、また、ありがたく思っていたことだろう。

荒牧は、昭和15年3月天理中学校を卒業すると「やうき寮」幹事として勤め、翌16年3月の放送で、「ハンガリア田園幻想曲」を演奏、その後間もなくしてNHKに入局。矢野清宅に住み込みながらの通勤であった。以後幾度かにわたって吹奏楽部のために貴重なアドバイスをしていくことになる。


第4節 コンクール出場

全関西吹奏楽コンクール始まる

全国各地で学校、職場、一般の吹奏楽団が出来はじめた昭和初期頃から、次第に吹奏楽連盟の結成が叫ばれるようになり、昭和9年の東海連盟をかわきりに、同11年関東吹奏楽団連盟が結成され、「全関西吹奏楽団連盟」は昭和12年9月25日に連盟創立総会がもたれ、ここに後日全日本吹奏楽連盟の結成にかかわる3つの連盟がそろうことになった。

関西吹奏楽連盟50周年記念誌の大阪府吹奏楽連盟記録によると、天理中学校音楽部も昭和12年の時点で大阪の連盟に加盟している。大阪府の他の学校を挙げると、天王寺商、京阪商(現守口高)、東商、泉尾工、城東商(現商大付高)茨木中、浪華商。天理を含めて8校の学生部、それに青年部として松下電器、丸紅、伊藤萬、佐々木営業部、大阪三越などの会社関係のバンド、船場楽団などの一般吹奏楽団を合わせて青年部15団体、計23団体からなると記録に載っている

しかし、同記念誌・関西吹奏楽連盟50年史の冒頭には、加盟団体数大阪22団体とあり、数字が合わない。天理は奈良県だから数に入ってないのだろうか。また、昭和12年の秋の段階ではたして天理中学校が加盟していたものやら、まだまだ人数も少なく、発足して1年ほどしかたっていないし、指導者矢野清着任以前のことでもあるから、連盟とのコンタクトがとれていたかどうか怪しいところも多い。どうも察するに、矢野が指導者に就任する翌13年以降に加盟したのではと思うが、どうだろうか。いずれにしても全関西吹奏楽団連盟は、大阪、京都、兵庫をあわせてここに発足したのである。

役員は、次の通りであった。

顧問 山田耕筰(作曲家)、林 亘(大阪市音楽隊長)、永井幸次(大阪音楽学校長)奥野能郎(放送局文芸課長)、村山長挙(朝日新聞社会長)、永井建子(元陸軍軍楽隊長)、市川寛(大阪市社会教育課長)
理事 菅野圀太郎(指導者)、永井巴(指導者)、高丘黒光(天王寺商業)、福島泰山(平安中学)、赤井清司(朝日会館主任)、大塩季久(滝川中学)、嘉納康祐、中村喜一郎(朝日新聞計画部長)

なお、全日本の連盟が結成されるのは、2年後の昭和14年11月11日のことである。 天理中学校音楽部は、昭和14年暮れに第2回目のラジオ放送を成功裡に終え、校内外での評価も次第に上がり、部員数も30名近くになってきた。

昭和15年2月11日、この年は紀元2600年の記念すべき年で国中祝賀気分にわきかえり、天理中学校音楽部は、橿原神宮野外講堂で行われた「紀元2600年奉納演奏会」で松下電器と合同で出演、この模様が大阪中央放送局からラジオ放送されている。同じ日にはまた大阪朝日会館で「第8回紀元節奉祝大音楽会」が開催され、これにも浪商と合同で出演している。時間が詳記されていないが、いずれにしても大変忙しい一日であった。

年度も改まり昭和15年4月。教祖誕生祭をつとめて間もない4月20日午前9時から東屋敷大テント内で挙行された3会連合総会(教師会、婦人会、青年会)にて演奏、午後7時半からは天理教校と道友社の共催で、教校40周年記念・道友社創立50周年記念「映画と音楽の夕べ」が本部東テント内を会場にして開催され出演。この日夕方30分くらいの短い時間ではあったが、陸軍戸山学校軍楽隊(大沼哲隊長)が訪れ、各パートに分かれて屋外で音階練習のやり方、行進曲「立派な兵隊」の指導教示をうけた。

翌4月21日は午前9時過ぎから東屋敷大テント内で開催された教校40周年記念式典で演奏、午後1時からは天理教館において道友社創立50周年記念「奉祝子供大会」が開催され、これにも出演した。24日は各学校閲団分列式。

行事が続いた多忙な旬間中をのりこえ、5月に入ると12日に橿原競技場を会場にして開かれた「第6回日本体操大会中央大会」には開会式と閉会式のファンファーレ隊として、天理からは佐藤道晴(昭和17年度卒コルネット)、高原昭臣(昭和18年度卒トロンボーン)が参加、他4名の浪商メンバーとの合同であった。5月27日の海軍記念日には大阪で行われた大行進に参加、また、朝日会館で合唱連盟と共演した記念演奏会にも合同の中に混じって出演している。この様子はBKからラジオで放送された。

 

引原好三郎指揮でコンクール初出場

いよいよ第1回の関西吹奏楽コンクールは、10月6日「第1回全関西吹奏楽団連盟愛国吹奏楽大会」として天王寺音楽堂を会場に開かれた。14団体が出場。課題曲は「愛国行進曲」、随意曲「印度の女王」であった。天理中学校音楽部は創部5年目にして出場。

しかし、この頃から吹奏楽連盟に関係していた矢野清は、自らタクトを振らずに引原(現鴻田)好三郎が指揮台に立った。連盟の関係者が棒を振らない方がよいのではとか、周囲から様々な雑音が聞こえ、また、他校のレベルもわからず、何分コンクールというのは最初のことでもあったので、神経質になっていたのかもしれない。結果は入賞を果たせず5位だったようだ。また、随意曲で敵国の曲を演奏したのがいけなかったなどと囁かれた時代でもあった。

11月11日に紀元2600年奉祝国民大会が大阪中之島公園運動場を会場に開催され出演。23日は「天理教奉公健児団結成式」が本部中庭で行われ演奏、この年の行事をおえている。

天理中学校音楽部は残念ながら出場出来なかったが、この年から始まった全日本吹奏楽コンクールのことについてちょっと触れておきたい。

11月23日に第1回の全日本吹奏楽コンクールが大阪を会場にして開催されると、次第に関西各方面の吹奏楽熱が高まってきた。第1回のコンクールは橿原神宮で参拝の後、中之島に集合して淀屋橋を出発してから御堂筋、道頓堀、千日前までの約4キロの演奏行進と、朝日会館における舞台演奏とに分かれており、審査は行進、舞台それぞれ5割ずつの配分でなされた。

この大会に東京府立第一商業学校吹奏楽部員として参加したのが大石清(楽朋会賛助会員、元東京芸術大学教授)である。「あの広い御堂筋のビルの谷間での演奏行進は、東京での経験のないことでもあり、思いもよらぬリズムの乱れ、反響による音楽の乱れなど、ステージでの好演もむくわれず、第3位になったことは大きな思い出で、いつまでも忘れることのできないものである。」と全日本吹奏楽連盟40年史に書き記している。

昭和16年の大きな出来事といえば、昨年に続いて全関西吹奏楽コンクールに出場したことであろう。また、前述したように3回目のラジオ放送で荒牧亀太郎がソロをして「ハンガリア田園幻想曲」を放送したこともこれに加えるべき出来事のひとつだ。

1月15日、天理中学校予餞会にて演奏。2月11日浪商と合同で「第9回紀元節奉祝大音楽会」に出演、これは大阪朝日会館。記録によるとここで荒牧亀太郎がソロをとっている。やはり曲は「ハンガリア田園幻想曲」であったのだろうか。3月8日は第3回目のラジオ放送。

3月21日から24日まで開催された「全関西吹奏楽講習会」は関西で最初に開かれた講習会で、大阪朝日会館、久宝寺小学校、NHK等を会場として山田耕筰を講師に招き、指揮者と個人講習とに分かれて行われた。大阪市音楽団、大阪放送管弦楽団が協力。日本放送協会主催、朝日新聞社後援であった。この講習会終了後、優秀者を選んで吹奏楽団を編成、天理中学校音楽部員はほとんどがこの中に選ばれたそうだ。

そして山田耕筰が矢野清に指揮法について教授した様子は「楽朋30年誌」に内藤敏行が「おやじ万歳」のタイトルで書き記している。このときの模様かと思われる。

初代ドラムメージャー、森川晴三郎

バンド設立のころから加わって熱心に活動してきた森川晴三郎が卒業したのが、この年の3月。卒業するとすぐに天理中学校音楽部のドラムメージャーに就任した。ドラムメージャーといっても今のようにはっきりした役割が決められているわけではなく、矢野清の来ないときには、指導したり、細かな雑用も多かったようだ。ドラムメージャーというハイカラな呼称がはたしてあったのやら。また、当時のシグナルバトンは今と違ってシンプルで、元来サーベルを使って指揮してきた軍楽隊からの流れで、ステッキくらいの短いものであり、革のケースに入っているものもあった。

森川はこの後昭和18年までドラムメージャーとしてつとめている。バンド創成期における森川晴三郎の貢献も見逃すことが出来ない。

昭和16年度の初め、4月18日には教祖御誕生祭で「奉祝歌」の演奏、21日は各学校閲団分列式での演奏。春、秋の運動会での演奏。コンクール前の10月28日、本部では戦没者慰霊祭が行われ、引き続いて午後1時から東講堂に場所を移して「遺族慰安演芸大会」が行われた。演奏曲目は「軍艦行進曲、愛馬進軍歌、進め荒鷲、大空の勇士を仰いで、国の華」であった。次第に軍国調の曲が多くなってきた様子が伺える。時はまさに開戦直前のことである。他には漫談、漫才、浪曲、劇映画などが出し物であった。

2度目の全関西吹奏楽コンクールへ挑戦するのは、11月2日のことである。しかし、この年は前年のことを思慮して、浪商と合同で審査対象外として出演している。コンクールが始まってまだ2年目であり、どのような状況なのかを矢野自身はっきり納得してから、自信をもって出場したかったに違いない。出場団体は全部で17団体。天理と浪商の合同バンドは18番目として最後に出演、「空の守り、ペルシアの市場にて、東洋の薔薇」の3曲を演奏している。ちなみに16年度のコンクール課題曲は、行進曲「大政翼賛」であった。第2回全日本吹奏楽コンクールは11月23日、名古屋で開かれている。

船場大教会から楽器譲渡される

第2回全関西コンクールに特別出演した後、12月には「南方方面愛国少年団壮行式」が行われ「愛国行進曲」で学友たちを見送り、年が明けて昭和17年1月24日、大阪朝日会館で行われた「銃後振興吹奏楽演奏会」に出演。この頃船場大教会から楽器一式が譲渡された。船場楽団は教祖五十年祭前に組織され10年を経ずして昭和16年10月に解散するわけであるが、教内外での目ざましい活躍ぶりは特筆すべきものがある。しかし、この頃から部員の応召によって人数もそろわなくなり、これ以上の存続が困難になってきたので、ちょうど船場に代わって天理中学校音楽部は部員が充実しだし、バトンタッチするように楽器が天理中学に譲渡されることになった。この決断は梅谷忠雄は勿論、二代真柱様のお声によってなされたものである。

それまでの天理中学校の楽器は決して上等なものではなく、度々大阪での演奏会に出演すると、都会の学校の楽器の良さに憧憬の念を禁じえなかったという。前年のコンクールで入賞出来なかったのは、楽器のせいも少しあったのかもしれないと、後年森川晴三郎は語っている。いわく、音が合いにくいし、音質も良くなかったらしい。そこへ降って湧いたように船場の素晴らしい楽器が手に入ったのである。部員はどれほど歓喜したことだろう。

都会のバンドに負けるな!

2月11日の「第10回紀元節奉祝大演奏会」では日鉄、朝日新聞と合同での演奏に出演。この頃は大阪に度々出て行き、天理中学校として単独の他、よその学校や職場、一般のバンドに入って演奏することが多かった。必ずしも全員でというより、この日はクラリネットとトランペット、この日はバスといった具合に大阪へ楽器を持って出て行くメンバーは決まっていなかったようだ。天理の田舎町から大阪に出て、何かしら都会の雰囲気を味わって帰ってくることが当時の部員たちのちょっとした喜びでもあり、「あそこのバンドではこんなことをやっていたで」とか、「こんな曲を天理でもやりたいなあ」などと天理では味わえなかった刺激を受けて帰ってくると、それが他の音楽部員へ浸透していく。田舎にあっても次第に実力を伸ばして、都会のバンドにも負けないような力を徐々につけていった。 矢野清はこの頃、天理中学校の他に浪華商業学校、株式会社佐々木営業部(レナウン)、日鉄大阪製鉄所、朝日新聞大阪本社青年部などのバンドを指導しており、時折大阪へ出かけた天中生はこれらのバンドに加わって演奏したわけである。

2月18日「戦捷第1次祝賀式」が本部中庭で行われた。2月15日のシンガポール陥落を祝して全国で繰り広げられた祝賀式で、本部中庭には約8000人が集まった。式は午前11時から始まり、国歌吹奏、行進曲演奏などをして午後0時半に終了。2月21日は勤労歌発表会が天理中学校講堂で行われた。4月は18日の御誕生祭奉祝歌演奏に始まり、21日各学校閲団分列式。なお、4月19日に午後1時から音楽会が持たれたと天理時報が報じているが、吹奏楽部が出演したかどうか不明。たぶん春季演奏会として出演した可能性は高い。40周年記念誌に天理学園合同演奏会とあるのがそれらしい。

また、毎年4月23日は二代真柱様の御誕生日で、真柱邸の中庭でのお祝の席に招かれて演奏をし、おみやげには当時なかなか買い求めることが出来なかった消ゴム付きの黄色い鉛筆を頂戴して部員一同大喜びしたり、また、中庭の屋台でうどんや寿司を食べたりで、束の間の憩いの時間をもったものである。

全関西吹奏楽コンクール初優勝

昭和17年の全関西吹奏楽コンクールは「第3回愛国吹奏楽大会」として9月13日、大阪中央公会堂で開催された。

天理中学校音楽部は前日から大阪入りして、大阪教務支庁に宿泊。当日は難波神社を出発して松屋町筋を通って中之島の公会堂までの行進演奏。そして舞台では課題曲「護れ海原」随意曲「千代田城を仰いで」を森川晴三郎指揮で演奏。参加は22団体であった。

優勝校発表の際、部員一同は会場の2階席左側に陣取り、「奈良県天理中学校…」の発表に思わず歓声が湧き上がった。念願の優勝旗を受け取る松永喜代人主将の脳裏には入部時からの出来事が去来し、胸中万感迫るものがあったに違いない。松永は、その時の様子を「夢の優勝旗を手にして大喜び…」とあっさり書いているが、田舎中学校の音楽部が全関西を制覇するなどは、まさに「夢」だったのである。それが現実になって松永の手にしっかりと優勝旗が握られいる。部員たちが狂喜した様子が目に浮かんでくるようだ。

最上級生4名は奈良38連隊で教練の「兵営宿泊」最中のコンクール出場であり、大阪から戻ると、西大寺で他の部員たちと別れを告げ、松永らはそのまま奈良第38連隊へ向かった。軍装を整え、今まで楽器を持っていた手に38式歩兵銃を携えて兵営で教官にコンクール優勝の報告をするが、慰労と喜びの言葉もなく冷たくあしらわれてしまった。異様なまで軍国調に偏った世相の波が、純真な中学生の心に大きな傷を残してしまったことであろう。

初めての優勝パレード

上級生が兵営宿泊を終えて帰校するのをまって、学校での優勝報告が行われた。そして、すでに8月26日をもって校長を退き、この時点では竹村菊太郎が新校長であったが、是非とも前校長にも報告しておきたいとの思いから報告演奏がなされたのである。本部参拝、その後早速優勝旗をもって柏原義則前校長宅まで本通りを行進演奏。名東詰所内の会長宅前で、松永が一歩前に出て優勝報告をするのを柏原前校長は嬉しげに受け応えしている。それから演奏。自信に満ちた堂々とした演奏だった。

この日、森川が学校へ行くと部長から、名東詰所までの行進のことを聞かされた。彼はまったく予期しなかったので、ゲートルの用意がない。仕方なくそのままの格好で先頭を歩くことになったが「なんとも不細工な」と彼は今でもこの写真をみるたびに気恥ずかしそうな顔をする。

この頃に女学校に鼓笛隊が、しばらくして小学校(当時は少年学校と呼んでいた)にはラッパ鼓隊が出来ている。勤労奉仕で中学校音楽部員が四散して、活動が鈍化してくると少年学校ラッパ鼓隊が活躍することになるが、これはしばらく後のこと。

10月に入って24日が秋季運動会、26日秋季大祭の佳き日には教校において講演部とともに演奏会を開催。この演奏会では次のような曲がプログラムにあがっている。「護れ海原、大東亜決戦の歌、千代田城を仰いで、亜細亜の力、航空日本の歌、国の華、暁に祈る、大東亜戦争海軍の歌、大東亜戦争陸軍の歌」と9曲である。戦争が熾烈な様相を呈してきた様がこの曲目を眺めてみると如実に現れている。これらの曲が音楽的にどうのとは言わないが、本当はもっともっと音楽的で、美しく、繊細でいて力強い外国の曲を演奏したかったに違いない。時代がそうさせなかったのである。敵国の曲を演奏するなどもっての他であった。

国内は食糧をはじめ物資が欠乏して、その極みに達していた。楽器製造が停止になり、今まで作られた楽器のうちでも良いものは軍楽隊が優先して占めてしまうので、一般にはなかなか良いものが回ってこなくなった。輸入などは勿論出来る状態ではなかった。金属の欠乏によってお寺の梵鐘さえ持っていかれてしまったことなど、よく聞かされていることである。革製品もしかり、洋服生地さえもだんだん粗悪になってきたのもこの頃のことである。とにかく軍最優先で物資が偏り、一般国民の生活は疎外されてしまう結果となった。戦争をしているわけだから、軍が負けては国そのものが滅びる、だから国民は少しくらいの我慢をして軍人さんに一生懸命頑張ってもらおう、そんな論理である。そうはわかっていても、当時の中学生にとって、辛い青春時代だったに違いない。


第5節 全日本吹奏楽コンクール初出場

「にをいがけの気持ちでやるように」

世の中の状況がだんだん悪くなってくるなか、しかし音楽部ではいよいよ11月に迫る全国大会へ向けて一層の努力が重ねられ、部員たちは遅くまで音楽室での仕上げにかかっていた。

そんなある日の午後、二代真柱様が竹村新校長を伴って練習場におみえになった。当時常に後輩の指導に当たっていた天理外国語学校在学中の五十嵐真太郎、村山滋(現岡田)が、それぞれパートに分かれて練習をしていた部員をすぐ音楽教室に集め、課題曲と随意曲の演奏をお聴き頂いた。指揮は五十嵐であった。突然のこととて部員は大慌てで、演奏はひたすら元気いっぱい。ピアノもフォルテもなかった。真柱様は正面横の椅子に座られ、後ろに竹村校長が立っている。指揮の五十嵐も随分上がってタクトを間違うわ、演奏としてはけっして出来のよいものではなかったし、ただただものすごいボリュームだったようだ。

狭い音楽室の中でガンガンやった後だけに真柱様は席をお立ちになって少しフラフラされた。そして全日本コンクールに臨む部員たちに「天理教にも、このような文化的なバンドがある。にをいがけの気持ちでやるように」とお言葉をくだされた。始めはとにかく慌てていた部員たちも、演奏を終える頃には落ち着きを取り戻し、真柱様のお言葉を一人ひとりがしっかりかみしめたのである。

この頃の楽譜は、現在のように市販されているものをそのまま使っていたわけではない。矢野清が自宅でせっせと編曲したものをパート譜にして、部員一人ひとりのために書いたものである。編成によってアレンジを変えなくてはならなかったのだ。

矢野宅にはこの時、荒牧、古川が起居しており、食糧難の時代に育ち盛りの他人を同宿させて面倒をみていた。荒牧は「私の放送局勤務は矢野先生のお宅からの通勤でした。兵役と敗戦、外地からの復員後も、晄道さんが音楽学校にお入りになる頃まで、先生のお宅で家族同様に育てて頂きました。戦前戦後の重苦しく、物の不自由な時代に、他人を預かって育てる、などという出来ないことをして下さいました。不言の師です。」と語っている。

また、譜面の話ではこんな逸話がある。昭和10年頃の話だと思うが、当時船場楽団の指導をしていた矢野清は擦り切れそうになった紋付羽織に袴のスタイルで大阪市音楽団を訪れ、「旧友」の楽譜を借りようと楽譜係をたずねた。応対に出たのはその頃係をしていた、辻井市太郎(のちの団長で天理楽朋会賛助会員、故人)で、早速楽譜を出してきて「借用書は?」と矢野に尋ねた。すると矢野は「ここで書いても借用書がいるのですか?」と逆に聞き返した。あきれて机を貸すと、2時間足らずで全部書いてしまい、辻井は「天理教にはえらい男がおるなあ」と感嘆したという。これがその後長く続いた2人の友情の始まりだった。

服装を整えるのにひと苦労

さて、全日本コンクール直前である。練習は松永キャプテンを中心にして、矢野清は勿論のこと、OB等の協力を得て次第に熱気を帯びてきた。総勢28人。まず、服装をそろえることが大変であった。その頃はズック靴さえもなかなか手に入らなくなっており、裸足に下駄履きという格好で、それにズボンにゲートルを巻いた変な格好の者もだいぶいたようだ。帽子も制服もスフ(ステープルファイバー)地の粗悪なもので、色は草色のような国防色、洗濯するとすぐに変形した。

当時の中学校は5年制、最低でも歳の開きが4歳以上ある。高等小学校を卒業してから中学校に入ってきた者がいると、6歳も年齢が違うこともあり得た。勿論身体の大きさは大人と子供。1年生で作った制服も2、3年経つと窮屈になってくるが、物はないわ、お金はないわで買い換えることが出来ない。仕方なく「マチ」をいれて補修をする、薄くなってきたところにはつぎをあてる。そんな具合だから、上級生になって身体が大きくなってきた者の服装はひどいものだった。コンクール出発直前には上級生部員は身体の大きな下級生から服を借りるのにひと苦労することになった。

とにかくつぎのあたってない服を友人から借り出すのが精一杯の状況で、11月20日の出発に際して神殿前にそろったときでも、ただ国防色系統の色というだけでまちまちのありさま、何しろ頭のてっぺんから足の先まで借り物づくめであったというからこれも仕方のないことであり、時代を彷彿とさせる。帽子は戦闘帽、服の色も濃いのやら薄いのやら、ゲートルもまちまちであった。さらに背の高さもまさしく大人と子供であった。コンクールに出てきた他の団体は、まさしく制服でバシっときまって、しかも帽子も恰好のいい物、さらに本革のベルトとバッグまでしている団体もあった。それに比べてわが天理中学はそれは惨めな恰好だったと、当時の部員は語っている。

食べ尽くしてしまった教会の漬物

いよいよ出発。夜行列車に乗り、開通したばかりの関門海底トンネルをくぐった時の驚きと珍しさは格別であった。天理時報は小倉到着が22日朝と記載しているが、どうも怪しい。20日に出発したとなるとどうも日程があわないからである。出発のときの写真の裏書きには昭和17年11月20日とある。おぢばを夕方出発して山陽線を夜行で走っていくと、当時でさえも小倉には21日に着いてしまう。三原を夜中に通り、母親から赤飯の差し入れをしてもらったことを、当時4年生だった大森充則が記憶しているから夜行列車だったことは確かであろう。さらに11月22日の朝日新聞は、東京府立化学工業学校の一番乗りに続いて、天理中学、浪商が20日に博多入りしていると報じている。これも日にちが合わない。いずれにしても矢野の写真、また、当時4年生だった高原昭臣の同じ写真の裏書きにはいずれも20日の日付が見られるから、これがまず正しいと思われる。

翌21日朝、小倉に到着。教区の要請で小倉陸軍病院を浪商とともに慰問演奏する予定になっているが、まず腹ごしらえである。この時の様子を当時3年生だった高部龍生は次のように詳しく書き記している。

当時は既に極度の食糧不足で、お世話頂いた教区側でも何とかデパートのレストランに交渉して朝食を準備して頂いたのですが、内容は、食パン1切れに海藻のスパゲティ風、人参2切れとホウレン草くらい。どうにもお腹の虫が治まりません。朝食後近くのある分教会で休憩したときに、「何もありませんので…」とお茶うけに出された沢庵漬に殺到。何とわずか20分くらいの間に、その教会の1年分の4斗樽を1本残らず平らげてしまったのです。その後はさぞ困られたことと思いますが、その美味しかったこと、いまだに忘れられません。

休憩後、午後から約2時間、近くの陸軍病院を慰問演奏、「陸軍観兵式分列行進曲」などを浪商と合同で演奏した。同日午後6時54分博多到着。大濠公園近くの福岡教務支庁に入る。翌日は練習をしたのだろう。

たった一人の小太鼓奏者、ダウン

福岡入りのころには矢野晄道の足が大きく腫れ上がってしまった。当時のことは鮮明に覚えているという矢野晄道は、

「靴だけは自分のものだったんだが、当時は牛革でなくて豚革のもので、靴の踵は釘で打ちつけてあった。その釘が内側に出ててね、中敷がしっかりしているようなものじゃなかったんで、踵をチクチクと刺すんです。最初は痛いなあくらいだったんだけど、そこからバイ菌が入ったんでしょう。」

「毎日遅くまでコンクール練習のため、寮に帰ると食事は残ってなくて、次の日の朝食に出る昼の弁当分まで朝食ってしまって、1日1食という日が何日も続いて栄養状態は最悪。しかも11月末の寒い頃でしたから夜行列車には暖房が効いている。悪条件が重なってだんだん痛み出して、それでも我慢をしてたんだけど、小倉に着く頃には足の付け根から先までパンパンに腫れてしまって歩けなくなった。病院で痛み止めの注射を打ってもらったけど、急には治るはずはないし、移動のときは村山先輩に背負ってもらいました。靴はなるべく履かないようにして、ワラ草履で普段は過ごしてましたが、行進演奏はそうもいきませんから、痛いのを我慢して靴を履いて歩きました。その痛さと、コンクールで負けた悔しさ、そのときに親父(矢野清)から、お前のために負けたと言われたときの無念な気持ちは忘れませんよ。」と語っている。

行進演奏のこともあって、父である矢野清や先輩が手を尽くしたがどうにもならず、矢野晄道は一睡も出来なかった。当時3年生であった。今なら交代要員もいるだろうし、医薬品もいいものがそろっているのだろうが、なにしろたった一人の小太鼓奏者。これで万事休す。当日は4キロ以上の行進演奏をしなくてはならないからだ。

ここで当時のコンクールについて記録面をひろってみよう。

  • 主催 大日本吹奏楽連盟・朝日新聞社
  • 後援 文部省・厚生省・情報局・大政翼賛会・大日本産業報国会・鉄道省
  • 賛助 日本放送協会・日本音楽文化協会
  • 課題曲 行進演奏の部
  • イ)吹奏楽団
  • 行進曲「航空日本」陸軍軍楽隊曲
  • ロ)ラッパ鼓隊
  • 「戦捷行進」和田小太郎曲
  • ハ)ラッパ隊
  • 「速歩行進その1」
  • ニ)鼓笛隊
  • 「国民進軍歌」小森宗太郎曲
  • 舞台演奏の部
  • イ)吹奏楽団
  • 行進曲「亜細亜の力」
  • ロ)ラッパ鼓隊
  • 幻想曲「喜悦」山口常光曲
  • ハ)ラッパ隊
  • 「君が代」「国の鎮め」各1回
  • 「集まれ」「気をつけ」「休め」
  • 「解れ」各2回
  • ニ)鼓笛隊
  • 「少年楽手」明石丈夫曲

審査員

  • 乗杉嘉寿(委員長)…東京音楽学校校長・全日本吹奏楽連盟理事長
  • 内藤清五、近藤信一、大塚正則、坂倉林司、新美章、林 亘、福喜多鎮雄、志波孝一、植原巌

大会役員

  • 会長 子爵 岡部長景(文部大臣)
  • 副会長 原田譲二 学生の部出場校
  • 東北中学校 指揮 白鳥奥郎 行進曲「大東亜戦争海軍の歌」
  • 東京府立化学工業学校(第2位)指揮 高木正夫 行進曲「大東亜戦争海軍の歌」
  • 東邦商業学校(第1位)指揮 神納照美 行進曲「連隊」
  • 天理中学校養徳報国団(第3位)指揮 森川晴三郎 行進曲「千代田城を仰いで」
  • 広島松本商業学校 指揮 三宅健二郎 序曲「栄光」
  • 小倉陸軍造兵廠技能者養成所学校 指揮 大塚斗喜太 行進曲「大東亜戦争海軍の歌」

専門家の指揮は減点?

吹奏楽学生の部へは6校出場、全体で25団体の出場であった。課題曲は、行進演奏と舞台演奏では違う曲であり、また、全関西コンクールのときとも違う曲であった。

天理中学校養徳報国団(この時はこの名前で出場)は、開会式に先立って21日と同様に午前中、福岡陸軍病院を慰問演奏。正午に福岡市東公園内広場に集合して、午後1時のファンファーレによっていよいよ式典が始まった。国旗掲揚、君が代奉唱、宮城遙拝、続いて「海ゆかば」の流れるなか亀山上皇銅像に敬礼、優勝旗返還のあとしばらく挨拶が続いて全員で「愛国行進曲」を内藤清五指揮で演奏。

式典が終わるといよいよ行進演奏の部の開始である。行進は東公園を出発して電車通りをしばらく行進。県庁の角でいったん待機して、左折したところからが審査区域であった。市役所と県庁の間の通り百五十メートルが対象であった。審査区域が終わると右折して西公園の方に向かって進む。

わが天理中学校養徳報国団の足並みは見事で、矢野晄道が足の痛みをかばいながら何とか行進した姿は痛々しかった。しかし、矢野清から聞かされていた「途中審査員席以外にも、どこに隠れて審査員がいるかどうかわからんから、気をぬかずにやるように」の言葉が頭のなかにあり、とにかく精神的にも、肉体的にも疲れた行進だった。先頭はプラカード、続いて幟、そして堂々たる全関西の優勝旗が、その後には森川晴三郎の指揮棒、バンドが続いている。演奏曲目は行進曲「航空日本」。

当時は現在のようにドラムパートが充実していない。大太鼓、小太鼓、シンバルだけである。ドラムマーチも現在のようなスマートなものはなかったようだ。普通は曲を何回となく続けて演奏して、疲れてくると指揮棒がドラムマーチのサインを出す。観客が大勢いるとドラムマーチのサインはなかなか出ず、管楽器の者にとっては大変だった。曲の演奏がずーっと続いたのである。

夕方5時から福岡中学校でいよいよ舞台演奏である。課題曲は行進曲「亜細亜の力」、随意曲「千代田城を仰いで」の2曲が演奏された。森川晴三郎の指揮だ。

矢野が自分で棒を振らなかったのには実は訳がある。「専門家が棒を振ると減点する」との話が関西地区では出ていたからで、そこで矢野は森川に棒を譲ったという経緯があったのだ。ところが、この減点の話はのちほど判明したところでは全国では決定していなかったということ。これが矢野の耳に入ったのはコンクールの終わった直後であった。当時の矢野はこれを非常に悔しがり、この頃のことは以後もあまり話題にしたがらなかったという。しかし、「晴さんはよくやってくれた。でも、俺が振っていたらと思うと…」と思い出すたびに悔しそうな顔をしたという。

実際、東邦商業は、事前に届けてある指揮者を急に変更して、東海地区理事長自らが指揮をして有利に導いたと言われている。他の地区に先駆けて連盟発足を成し、全日本連盟をリードしてきた東海地区の理事長が自ら棒を持つのである。悪い点がつけられようはずがなかった。当時はそんな時代なのである。 舞台演奏が終わった。矢野晄道は行進演奏を最後まで歩き続け、福岡中学校でのステージが終わった時には、一歩も動けず、やはり村山先輩に背負われるような状態だった。

悔しかった「天理(あまり)…中学校」

夜も更けていよいよ審査発表、海軍軍楽隊長内藤清五審査員がマイクの前に立った。「学生の部第1位、東邦商業」。アレっと松永は思ったという。「第2位、東京府立化学工業…」。そんなばかな。「第3位、アマリ中学?…??アマノ?……テンリ中学校」。なんと、3位である。しかも、天理中学校の名前さえまともに呼んでもらえなかった。純情一途なキャプテン松永少年は予期せぬ発表に切歯阨腕、頑張ってくれた部員に対して、どうしておめおめと3位の賞状を受け取れるかと義憤を感じ、入賞校は壇上への知らせを無視して会場の一隅で無念の涙を流していた。1年先輩で入部当時からいっしょにしぼられ、苦楽をともにした森川浩吉に「おい、松永早く行け」と言われてはじめて気を取り直し、壇上に上がる。

全国3位である、堂々と胸をはって賞状を受け取れる入賞である。しかし、「アマリ」とは情け無かった。それに演奏自体は決して上位校にひけをとるものではなかった。宿舎である福岡教務支庁に電車で帰るときは、いっしょに教務支庁に泊まっている一方の浪商がラッパ隊の部門で優勝して大騒ぎ、それに較べてわが天理は一同涙して電車にゆられている。昭和17年11月23日、矢野清40歳を迎える2日前のことだった。

音楽部が誕生してわずか数年で全国大会まで進み、見事3位を勝ち得たのである。勿論部員たちは優勝を目指して頑張っていた。しかし、親神様はいきなり優勝させて有頂天にさせるよりも、後々にもっと大きな楽しみとして残しておいてくださった。そう考えることが出来そうである。実際、この悔しさが矢野清をして「いつかきっと」と奮起させるバネになったのであり、天理高校吹奏楽部が長い栄光の歴史を築き上げた根底に、この悔しさが大きな力となったことは否めない。

翌日、朝日新聞福岡支局前で撮った写真のなんとも物悲しげな暗い顔が、そのときの部員の心境を物語っている。後列左からOBの村山滋、五十嵐真太郎、荒牧亀太郎、廣池敏行、引原好三郎部長、森川浩吉。前列はキャプテン松永喜代人、4年生田之上陽三郎、指揮をした森川晴三郎、4年生大森充則、5年生佐藤道晴、入田鶴彦の12名である。廣池は、当時内地では味わえなかった甘いお菓子などを持参して朝鮮から福岡までわざわざかけつけ、元気づけてくれた。部員たちはそのお菓子の味が忘れられないと後々語っている。

学校に戻ると、朝礼の時に全校生徒集合の前で竹村校長から部員一同に対して「校名発揚賞」が授与され、その後多くの出場記念の演奏発表の場が持たれた。12月に入って7日に朝日会館で「大東亜戦争1周年記念国民士気昂揚愛国音楽大会」、翌8日は本部中庭において、同様の「大東亜戦争1周年記念国民大会養徳支部大会」が午後2時から開催され、式典にて「海行かば」などを演奏。昭和17年の活動に幕を閉じた。

明けて昭和18年1月17日、大阪陸軍病院に慰問演奏。この時の様子を1月24日付の天理時報からひろってみよう。

大阪教区一宇会少年部では、さる17日午後1時から陸軍病院金岡分院において白衣勇士の演芸慰問を行った。この日各支部から選抜された出演の少年少女会員は各指導員に引率されて分院にいたり、約2時間半に亘り熱演に次ぐ熱演で勇士の拍手を浴び、「兵隊さんよありがとう」の赤誠を発揮した。斉唱「海ゆかば、少国民進軍歌」 舞踊「きのこおどり、くろがねの力」 劇 「雪の日」など

なお、この日天理中学校音楽班は少年部と合同で吹奏楽演奏慰問を行い、その冴えた演奏振りは勇士を驚嘆せしめ、一入喜ばれた。

曲目は「大東亜戦争海軍の歌」「大東亜戦争陸軍の歌」「東洋の薔薇」「森の鍛冶屋」「攻撃」

2月11日は紀元節。この日は大阪朝日会館にて「第11回紀元節奉祝大演奏会」が開催され、これに出演。最上級生にとっては中学時代最後の行事であった。2月15日は卒業式。3月6日は満州先遣隊壮行式が本部で開催され、天理中学校音楽部は、少年学校ラッパ隊とともに行進曲を演奏。この前年12月からは学徒出陣も始まり、戦争の波がいよいよ学生の上にも覆いかぶさってきた。

東商の楽友会に対抗して「楽朋会」誕生

天理中学校音楽部吹奏楽班から最初の卒業生が出たのは、昭和15年春のこと。わずか3名であった。翌年の卒業生が6名。この頃から吹奏楽班はどうにかメンバーもそろってきたし、コンクールにも出られるような力もつけてきたが、OBたちの心配の種は、これから後輩たちがしっかり部を盛りたてていってくれるかにあった。自分たちが奔走して何とか格好もつくようになってきたし、バンドそのものが青春時代の血肉の結晶といっても過言ではなかった。卒業した人数はまだわずかであったが、卒業したての者が寄り集って、後輩のことを心配し、今後の部の活躍を祈ってOB会を結成しようと言い出したのは、そんな頃であろう。同時にOB同士のつながりを持ちたいとの思いがあったことはいうまでもない。

記録上最初に「楽朋会」の名が登場するのは、昭和18年。9月26日に開催された「国民士気昂揚大音楽会」のプログラムにはメンバー表とともに楽朋会員の名前が載っている。この日の演奏会終了後、矢野清、荒牧、村山、五十嵐、森川(浩)、佐藤、入田、松永らが出席して第1回の会合がもたれたことになっている。

当時、全関西では大阪の東商がずば抜けており、序曲「こうもり」を実にすまして演奏するのを聴いて、部員たちはいつの日にかわれわれもと思っていた。その東商が楽友会というOB会主催で演奏会をもっており、矢野は東商の楽友会に対抗して、「楽朋会」と、朋友の朋の字をとって命名したものである。

はっきりした成立年月日は記録として残っていないが、荒牧はOB会の結成について熱心に話をしに何度も大阪から天理まで足を運んでいる。昭和16年以降のことかと想像出来る。つまり、昭和16年以降、18年以前ということになるわけである。中をとって17年、というような決め方ではなかったのだろうが、いずれにせよ相当の年月もたち、資料も少なくなって、記憶も薄らいでくると大体のことしか分からなくなってくるのだから致し方のないことだったろう。矢野清在世中の昭和47年に楽朋会創立30周年記念総会がもたれていることから、昭和17年は、やはり創立の年として矢野も認めてのことであり、間違いのないところだと確信する。残念なことは資料の残されていないことである。

かくて昭和17年が「天理楽朋会」の創立の年となった。初めて全国大会に出場した栄光の年に「天理楽朋会」が産声をあげたことは、実に意義深いことである。 ベルを演奏した今田善雄部長 天理楽朋会初代会長であり、音楽部部長として指導者矢野清を助けた人、それが今田善雄である。千々和部長の後をうけて部長に就任した彼は、音楽と書道の教師であり、また、事務長として天理中学校に長く奉職した。矢野清も彼がいなかったらどうなっていただろうと当時をしのんで述懐している。楽朋会が発足した当初、OBたちは矢野清に会長の就任を依頼したらしいが、彼はこれを固辞して、尊敬する今田に会長の就任を願ったと聞いている。矢野清は今田善雄の人格を慕い、頼りにしていた。昭和19年4月の誕生祭でベルを叩いている今田の姿は実に凛々しい。戦後になって楽朋会の会合にはよく出席し、当時の部員たちとの懐かしい話になると、眼鏡の奥から優しい瞳が輝きを増すように見えた。