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第1篇 天理高校吹奏楽部のあゆみ

第1章 誕生前夜

第1節 胎動のころ

半世紀余りに及ぶ吹奏楽部栄光の歴史が始まったのは、昭和11年、旧制天理中学校に音楽部吹奏楽班が誕生したときまでさかのぼることが出来る。もちろん、どのような生命も即座にして誕生するはずはなく、それなりに産みの苦しみを味わう。とくに人知の計り知ることの出来ないものによって周辺の環境が整ったときにこそ、見事な産声をあげてこの世に生命を与えられるものであろう。吹奏楽部誕生を知るには、その胎動のときを少しみつめてみる必要がある。誕生までの当時のおやさとの様子、教内の勢い学校の様子、そして世の中の流れ、そのなかでどのようにして吹奏楽班が生まれたのかを振り返ってみることにする。

おやさとの大変貌−大正〜昭和初期−

明治末から大正にかけて、天理教教会本部周辺はかなりの変化を見せている。いわゆる「大正普請」と呼ばれるもので、神殿西側の低地を盛土し、その上に神殿の建築がなされた。大正5年に教祖三十年祭が執行されるころには、全国から15万余の信者が帰参するようになって、それまで三島、布留、豊田あたりに密集していた詰所は西に伸び、川原城、田部、指柳、田井庄へと拡張分散され、さらに大正15年の教祖四十年祭頃には数十万の帰参者を迎え入れるために三島、豊田、川原城、田井庄、田部、別所、杣之内周辺の様子は一変したと言われている。大正12年には後に練習場になる天理教館が、同14年には天理教教庁印刷所や天理郵便局など鉄筋洋風の建物が建設され、商店・飲食店が軒を並べるようになった。大正11年にはそれまでの天理軽便鉄道が大阪電気軌道株式会社に買収合併され、大阪上六からの交通を可能にした。これによって各地からの参拝者の帰参の便もよくなり、大勢の乗降客で駅頭は賑わいをみせ、駅前には活動写真館も建てられた。

大正に終わりをつげ、改元され昭和の時代に入っていく。昭和初頭の「山辺郡丹波市町」は人口約1万5千人。神殿周辺には本部関係施設、詰所を除くと、田畑、雑木林などばかりで、田園風景を色濃く残しており、まさに田舎の風情の多く感じられるところでもあった。その後教祖五十年祭前まで続く「昭和普請」によってさらに大きな変貌を遂げるのである。

両年祭活動とおやさとふしん

教祖四十年祭後の十数年間は、まさに天理教史上における「おやさとふしん」の最も進められた時期のひとつではなかったかと思われる。四十年祭に向けての教会倍加運動が実をあげ、さらにその勢いが両年祭(教祖五十年祭、立教百年祭)を目指しての大きな力となったことは確かである。 教祖四十年祭の年(大正15年)に天理外国語学校校舎完成、昭和5年天理図書館、昭和8年教祖殿、翌9年神殿南礼拝場が竣工し、両年祭後の昭和12年には天理中学校校舎(現天理高校)が完成している。また、布教伝道は国内にとどまらず、アメリカ初の教会誕生など内外各地にと布教師が荒道開拓に出向き、一方教義講習会を開催、おふでさき、おさしづの公刊、天理教いちれつ会の設立、全国一斉ひのきしんデー、全国一斉路傍講演デーがそれぞれ始まり、教祖誕生旬間が決定されたのもこの頃のことである。さらには、昭和7年には現真柱様のご誕生で教内はどれほど勢いを増したことだろう。昭和9年、10年頃は天理教校別科入学生が1期で1万人を越えるようになってきた。教祖誕生祭が初めてつとめられたのは9年、このときからみかぐらうたの唱和が参拝者に許されるようになった。そしていよいよ教祖五十年祭、おぢば周辺は連日の人出で賑わい、期間中は百万以上の帰参者があったと言われている。

天理中学校新校舎の周辺

当時の中学校周辺の様子はどうであったろうか。真新しい神殿南礼拝場を背にして南門を通りぬけて南方を眺めると、少し小高くなった所(鑵子山)に天理教校別科の教室(後に天理第二中学校)が建ち並ぶのが見える。両側に咲いた桜並木の間を通って布留川にかかった「養徳橋」を渡るとすぐに教校への登り口の石段があり、それを登りきったところが本館。石段を登らずにぐるっと鑵子山沿いに大きく迂回するように道を登って行くと、右手に新しい天理中学校校舎、左手やや離れて外語の新校舎、天理図書館が威容を誇っていた。

ラグビー部、柔道部初の全国制覇

昭和11年1月、教祖五十年祭の受入れも大詰めを迎えた新春7日には、天理中学ラグビー部が全国大会で初優勝し、昭和14年夏には柔道部も全国初制覇を成し遂げて天理の名を全国に鳴り響かせている。一中、二中合わせると生徒数約1200名。これほど多人数の生徒数を誇りながら、音楽関係のクラブといえばハーモニカバンドを中心とした音楽部のみ。体育系両部の活躍に較べて、いまだ吹奏楽部の形すら見られない。ラグビー部が全国優勝を遂げたのを記念して、二代真柱様はこの日「臥薪十年・心踊之記」の揮毫を同部に贈った。現在も天理高校の本校舎講堂に掲げられてあるが、二代真柱様の御命で矢野清が吹奏楽の指導者に就任し、この額を眺めて「いつかきっと吹奏楽部を全国一にしてみせる」と心に誓ったのは、このあとしばらくしてからのことである。

教祖御誕生旬間始まる

この頃までの教内行事では帰参者のために講演会や映画会、レコードコンサートが催されて、子供から大人にいたるまで帰参者に喜ばれていたようであるが、吹奏楽による演奏会、あるいは式典の伴奏などとなると、詳しく記録されたものが残されていないので、残念ではあるがはっきりしたことは判らない。ただ、昭和10年4月18日から27日までの間執行された初めての教祖御誕生旬間の様子を、天理時報は次のように報じている。

すばらしい日だった、教祖様百三十七回の御誕生奉祝旬間はカラリと晴れた十八日その第一日の幕を開いた、お地場の街々と御誕生地三昧田を押し包んだ奉祝気分は筆にも口にも盡くされない、感激といふか、歓喜といふかこんな陽氣な賑やかな喜びに満ちた日を迎へさせて頂けようとは、果たして誰が想像してゐたであらう、本教はじまって以来の日だ、天理教の歴史に新しい一頁を加へた日だ、この歓喜の横溢した情景こそ将来の陽氣世界を目前に示されたものだらう、十萬の歸参信徒のうれしそうな顔々々、街といふ街、お地場一帯から三昧田へかけて紅提灯と五彩のモールのトンネルだ、楽隊が響く萬歳の叫び、團體列車の轟き、酣春の空に響く歓喜の大交響曲だ、この喜びこそ年と共に益々燃えさかえることだらう、この教祖様御誕生奉祝旬間こそ十萬の歸参者が始めて味はひ得た感激の日だった…略…

当時のおやさとの雰囲気がよくあらわれており、熱気に満ちた御誕生祭であった様子、教内の勢いが如実に記されている。

教祖殿が昭和8年に竣工して、翌9年から教祖誕生祭が行われるようになり、誕生旬間が10年から執行されるようになって、「奉祝歌」の歌詞が一般募集され、誕生祭で「奉祝歌」が最初に歌われたのは、昭和11年である。このときの奉祝歌には伴奏はあったのだろうか。

満州事変勃発、戦雲ひろがる

当時の世の中はどうであったか。昭和初頭、国内は深刻な不景気で、国民は貧困にあえぎ、さらに軍備拡張 ノよってますます国費が増加されると不景気は一層深刻なものとなった。昭和4年にはじまる金融恐慌の影響によって日本経済は大打撃をうけ、以後昭和6年に満州事変の勃発、翌7年1月に上海事変が起こり、5月には海軍青年将校らが首相官邸などを襲撃したあの5・15事件が起こっている。時局は次第に軍国主義の色合いを濃くしていき、いっきに泥沼化していくことになる。そして昭和11年2月26日に起きた2・26事件を境にして止めどもない悲劇へと突き進んでいき、昭和16年の日米開戦を迎えるのである。


第2節 出会い

梅谷忠雄、船場大教会にバンドを作る

吹奏楽部の歴史の中で忘れてはならない船場大教会長梅谷忠雄、そして矢野清との出会いがある。 梅谷忠雄は、明治38年、船場大教会2代会長梅谷梅次郎の長男として大阪で生まれ、20歳の若さで船場大教会3代会長に就任している。昭和3年、23歳のときには教会本部准員に登用され、翌々年教祖五十年祭立教百年祭準備委員を拝命、昭和9年輸送部副部長に就任、帰参者輸送に手腕を発揮した。その頃の様子は、船場大教会が発行した、梅谷忠雄写真集「波音萬里」に次のように載せられているので、少し長くなるが引用してみる。

時は教祖五十年祭前のことである。当時輸送部副部長として、大輸送の司令部という役目も当然重要ではあったが、実際に到着した人々の長旅の労をねぎらい、賑やかに迎えてあげたいという発案から、すでに8年頃から大教会に組織されていた「船場楽団」を、真柱様のお許しをいただいて、「輸送部付楽団」として受け入れ機関に組み入れる英断を下したのであった。遠方から帰参した団体等を、ブラスバンドが迎え、神殿まで先導する。ぢばの空に勇ましく青年たちが奏でる音色が響きわたる。人々は、やっと親の膝元へ帰ってきたのだという感激に加えて、この本部の歓迎りに接し、新たに心勇んだことであろう。この船場楽団というのは、若くして大教会長となった忠雄会長が、部内教会の子弟に楽器を持たせて楽しみを与え、音楽を通して時旬のご用に役立たせよう、との思いからはじめたものである。音楽奏者の経験があり、当時、大教会の雅楽部員であった矢野清が指導にあたり、かなり水準の高い吹奏楽団となった。JOBK(NHK大阪支局)の放送に出演したり、大阪朝日会館にて演奏し好評を博したこともあった。また先に書いた十三峠越え徒歩団参には、団体の先導をつとめ、おぢばでの各種行事等にも演奏をして華を添えるなど、多岐にわ たる活躍はめざましいものがあった。だが、12年日中事変勃発と共に団員が次々と応召し、やむなく解散せざるを得なくなった。後に二代真柱様のお言葉で、楽器を天理中学校に贈るとともに、矢野清も天理中学校吹奏楽部の指導者として勤めることになった。これが現在の天理高校の吹奏楽部の草分けである。爾来長年にわたり同部の後援者として、矢野清の相談相手ともなって、熱い眼差しを音楽に注ぎ、ある時はコンクールに足を運び、ある時は部員の服装などにも心を配って斡旋するのであった。

洋舞研究のはずが音楽の道へ

矢野清(旧姓佐々木)は、明治35年札幌に生まれ、22歳で洋舞の研究をしたいと東京に出てきた。ところが就くべき師の急逝で洋舞の研究も進まなくなり、途方にくれて大阪まで来ることになるのであった。師の夫君でピアニストの村田七光氏が「君はマンドリンやギターが弾けるのだから、その方をやってみたらどうか」といって、大沢管弦楽団(バイオリン1、ピアノ1、クラリネット1、トランペット1、トロンボーン1、ドラム1、三味線1、他邦楽鳴物11)を紹介され、弦バス奏者として入団。その後チェロ奏者としても活躍し、昭和2年、天理教東天満宣教所の三女矢野清子と結婚。昭和4年頃一家挙げて教会に住み込んだのである。

十三峠徒歩団参で見込まれた矢野清

昭和6年春、船場大教会では一千人の徒歩団参が催され、矢野清はその先導をするという音楽隊にバルブトロンボーン奏者として参加。編成はクラリネット1、トランペット1、バリトン1、トロンボーン1、小太鼓1、大太鼓1という小編成ながら、大阪の今里を出発して河内平野を横切り、生駒山の十三峠を登り、竜田におりておぢばまで約50キロの行程であった。この間、生卵を飲みながらほとんど吹きづめで河内平野を通り越し十三峠にかかった。やっとの思いで登りきって休憩していると、あとから登ってくる人たちが、「音楽隊、何かやってくれ」との催促。その頃にはズック靴のためか足の親指は血がにじんで真っ黒になっていた。しかし、演奏を止めると足が痛んで前に出ない。演奏するとリズムにのってひょこひょこ歩ける。この様子をみていた梅谷忠雄会長は「根性のある奴がいる」と矢野清を見出している。ちょうどその頃、梅谷は船場大教会に吹奏楽団を作ろうと考え、誰か適任者がいないかと探しているところであり、矢野清が彼の目にとまったのである。

梅谷自身も楽隊が好きであったことは、もちろんである。天理中学校在学中には軍事教練でラッパを吹いていた。梅谷にラッパの指導をしたのが、「西床」の主人、西有次郎(昭和33年度卒西在宏の祖父)である。西は奈良にあった第38連隊でラッパ手をつとめ、散髪店を開業していたが、天理中学校の軍事教練の担当官からラッパの腕を見込まれ、中学生にラッパを教えていたのである。梅谷が在学中の大正10年前後のことである。

のちに矢野清は、「西床のおじいさんがラッパの初代やで…」と話し、戦後コンクールが復活したころ、たまたま怪我で伏せっていた西の見舞いに、わざわざバンドを引き連れて店前で演奏し、優勝旗を枕元まで持って入って西に見てもらっている。これはずっと後の話。

五十年祭で活躍した船場楽団

矢野清は昭和7年、長男晄道の身上を機に大沢管弦楽団を退職して2月に天理教校別科第48期に入学。秋に卒業するのをまって、梅谷忠雄は矢野清に命じて船場大教会にあった雅楽部の部員たちを中心に船場楽団を結成させている。矢野清はその指導者として就任することになるのであるが、教祖五十年祭当時の教内の式典などで活躍したのは、この船場楽団であった。指揮は米田駒夫。JOBKに出演したり、演奏会を開催したり、なかなかの活躍であった。昭和12年に結成された大阪府吹奏楽団連盟にいち早く加盟して、同年12月26日にBKから単独で放送出演。翌13年2月11日「大阪吹奏楽団連盟、第6回紀元節奉祝大音楽会」が大阪朝日会館で開催され、出演している。この時の様子を天理時報は次のように報じている。

当日、大阪船場大教会雅楽部員十七名は立烏帽子、直垂姿にて荘重な国歌(君が代)を奏し、次いで平調音取より「倍臚」の曲を奏してその荘重な古曲に全聴衆を酔わしめ、更にまた同雅楽部員をもって組織する「船場吹奏楽団」は他の各種団体と共に洋楽演奏を行って大好評を博した。